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May 14, 2012
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カテゴリ:改訂  上杉景勝
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       「改訂  上杉景勝」 (78)


 この侵略戦争の終結で世間に秘匿されていた、秀吉の死が慶長四年の

年明けを迎えた一月五日に公表された。

 人々は日本の絶対者の死を知り喜びに沸き立った。

 晩年の秀吉は人替わりをした血を求める魔王そのものであった。

 だが秀吉の死を境として新しい独裁者が権力の中枢に座り、徐々に

正体を現しはじめた。

 それは徳川家康で彼は亡き太閤の遺命を無視し、秘かに蠢きだした。


      (謀略)

 家康は堺の豪商、今井宗薫を仲人にたて六男の忠輝と、伊達政宗の

長女の五郎八(いろは)姫との縁組を画策した。

 忠輝は八歳、五郎八姫は六歳の幼子で政略の臭いがあるが、家康は

これを強行した。

 秀吉は生前に『勝手に婚姻を結んではならぬ』と掟を定めていたが、

家康はこれを無視し、伊達家と縁組を結んだ。

「大老や五奉行がなんじゃ、わしの力でねじ伏せてやる」

 家康は伊達家と縁組をしたことで関東から奥州にかけ巨大な力を得たのだ。

 長年にわたる朝鮮の役で中国、九州の諸大名は疲弊しきっていた。

 老獪な家康は全国の様子を読み切っていたのだ。

 これを知った五奉行筆頭の石田三成と、大老の前田利家は激怒した。

 二人は太閤殿下の喪を発したばかりの、この時期にこれみよがしと遺命を

無視する家康の態度が許せなかった。

 特に前田利家の怒りは烈しいものであった。前田家の禄高は八十三万五千

石で、家康の三分の一に及ばぬが、秀吉の莫逆の友で信義の厚い人物であ

る。家康に接近した秀吉子飼の荒大名も、彼には一目も二目も置いていた。

「家康と一戦する」

 前田利家は激高し家康との一戦を覚悟したが、それを知った家康は利家を

丸め込んでしまった。

 この時期の前田利家は既に病に侵されていたのだ。

 これを憂慮した石田三成は利家に秀頼公の大阪城に移すことを進言した。

「前田さま、秀頼さまがこのまま伏見城にお座りになられてはなりませぬ」

「何故じゃ」

「諸大名は秀頼さまに拝謁した足で、家康の許に挨拶に行っております」

「・・・・」

「このままでは益々、家康の毒牙に諸大名はかかりましょう」

「三成、分かった。秀頼さまが大阪城にお移りに成られれば諸大名は伏見か

ら遠ざかろうろうな」

 流石は前田利家である、三成の考えを即座に理解した。

 秀頼公が大阪城に移れば、諸大名はしぜんと伏見の家康と疎遠となる。

 それに秀頼公を大阪城に移すことは、太閤の遺命でもある。

 秀頼公の大阪移転は、慶長四年の正月七日に前田利家が諸大名に言い

渡した。これに驚いた家康はいろいろと理屈を並べ延期を主張し、あげくには

淀の方まで手を伸ばした。

 併し、利家は淀の方など眼中になく諸大名に言い放った。

「おのおの方は殿下のご遺言をお忘れか」

 こうして正月の十日に、六十艘の船を仕立て大阪城に下ってしまった。

 だが煮ても焼いて食いぬ、家康は秀吉の遺命など眼中になく己の勢力の

拡充に動き出したのだ。

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Last updated  May 14, 2012 11:07:29 AM
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