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May 15, 2012
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カテゴリ:改訂  上杉景勝
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       「改訂  上杉景勝」 (79)

 さらに家康は関東から、大軍を伏見に召集したのだ。

 先鋒の榊原康政は、兵七千を率い正月の二十九日に伏見城に着陣した。

 その際、康政は京を通過中に家臣を放ち流言を言いふらした。

「関東より数万の軍兵が駆けつけた」と。

 これに対し前田利家は一戦を覚悟し、進んで兵を淀、橋本にだし、伏見に

進攻する積りであった。

 この利家の考えを知った家康は、直ちに計画を中止した。

 既に前田利家の病は諸大名の間にも知れ渡っていたのだ。悪戯に事を荒立

てる必要はない、利家の死を待つのみ。彼は徳川、前田家双方に義理のある

細川忠興、加藤清正、浅野幸長等に計って彼らの周旋に期待したのだ。

 こうして二月五日、家康と四大老、五奉行は誓詞を交換し問題を先送り

したのだ。

 この誓詞の交換で家康は四大老、五奉行の注意を受け入れたが、責任を

どうとるかは言及しなかった。故に問題が解決した訳ではなかった。

 こうした緊迫した情勢下で景勝は一人で悶々としていた。彼も大老の一人と

し、家康との誓詞交換に立ち会ったが、家康の態度を見るに反省の色は感じ

とれなかった。いずれ前田公がお亡くなりになれば家康は公然と牙を剥くと

景勝にも分かっていた。

 そうなった暁には利家に代わる逸材が居ない、堂々と家康の糾弾を行う

石田三成も、景勝から見ても身代が小さすぎる。

 それが大阪城に居られる秀頼公の災いとなることは自明の理である。

 四大老が結束できれば家康に対抗できるが、その器量を持った人物が居な

い。景勝自身も合戦となれば、家康に後れをとるとは思っていないが周旋事

は苦手としていた。

 こうした問題は国許に居る、直江山城守がうってつけの人材である。

 景勝は山城守の上洛を促す使者を国許に派遣した。

 こうした中の慶長四年閏三月三日、前田利家は豊臣家と秀頼の将来を案じ

ながら他界した。

 彼の死は石田三成等の反家康派にとり大きな衝撃であった。

 倅の利長は年若で父の利家のように合戦の実績もなく、将才も器量もない。

 合戦経験者は毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝の三大老である。

 石田三成は上杉景勝に期待した。たが彼の領土は遠国の会津である。

 その背後には奥州の覇者と異名をとる伊達政宗と、曲者の最上義光がい

る。上杉家は急な国替えで領内整備に忙しく、三成の盟友の直江山城守は

国許でそうした工事の総奉行となっている。

 前田利家という重石をなくした豊臣家は、朝鮮渡海で激戦を繰り返し帰国

した秀吉子飼の荒大名が、公然と石田三成に反抗しだした。

 秀吉の直臣の大名のなかで奉行として行政面を担当した、石田三成等を

吏僚派と呼ぶ。一方、戦功により大名に取り立てられた加藤清正、福島正則、

黒田長政、細川忠興等は武断派と呼ばれていた。

 秀吉の全国制覇の段階では武断派が必要とされたが、天下統一がなると

行政面の強化が重要となった。特に朝鮮の役でそれが顕著となって現れた。

 加藤清正や福島正則などは、幼少の頃から秀吉に育てられ、太閤には特別

の感情を抱いていたが、戦場での恩賞の判断が五奉行に任された時期から、

石田三成との確執が強まり始めたのだ。

 三成の判断基準は、利害や情に流されずに成果や正邪であった。

 彼は眼で確かめ、容赦なく秀吉に武断派の将達の違法行為を報告した。

 朝鮮での武将達は先陣争いに明け暮れ、日常的に戦功争いや抜け駆けが

行われていた。それを容赦なく弾劾した。

 その為に彼等は秀吉から叱責を浴びせられ、それが三成等の吏僚派の

讒訴と感じとった。これが石田三成の不幸であった。


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Last updated  May 15, 2012 11:41:16 AM
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