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May 26, 2012
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カテゴリ:改訂  上杉景勝
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       「改訂  上杉景勝」 (88)


 この報せを受けた景勝と兼続主従は、徳川家との徹底交戦を覚悟し、

領内統治を強め、国境の城砦に兵力を集中させた。

 更に景勝は自ら国境付近の予定戦場となる地域の視察を、精力的に

行い下野に至る軍事道路の整備を急がせた。

 下野は佐竹義宣の領土であり、石田三成との交流の深い彼と結べは、

家康の本拠地の江戸乱入は不可能ではない。

 慶長五年の年明けと同時に、上杉家に対する家康の態度が豹変した。

「謀反の疑いこれあり、釈明のために上洛せよ」 と命じてきたのだ。

 百二十万石の大藩の上杉家に緊張が奔りぬけた。直ちに山城守の

伝令が各城砦に駆けつけ、守りを固め臨戦態勢となった。

 前田家を屈服させた家康の次なる標的が、上杉百二十万石であった。

 その為に家康は巧妙な手を使っている。何としても謀反の疑いをかける、

その役割を越後の堀秀治に命じたのだ。

 堀家は越後に入封当時の年貢の一件で遺恨を持っていた。

 更に越後支配が思うに任せない状況であった。

 堀家に不満をもつ越後の豪族が、各地で一揆を誘発させていたのだ。

 これは旧領主の上杉家が後方から支援していると邪推した、堀秀治は

景勝の会津での行動を入念に探り、家康の家臣の榊原康政に逐一報告

していた。

 会津領内では城の新築や改修工事、道路の修復や新築、橋の改修、

建設などが盛んに行われていた。

 だが家康はそれを問題としなかった、それは故太閤殿下の命であり、

いかに家康といえども難癖は付け難いものであった。

 併し、それにかわり武具の調達、牢人の新規召し抱えが謀反の疑い

ありと家康は断じたのだ。

 更に三月となり、越後の津川城の藤田能登守信吉が年賀に上洛し、

家康の知遇をうけ、上杉家から出奔するという事件が起こった。

 藤田信吉は武蔵の出身で謙信時代に、越後に来て謙信に仕えた

武将であった。戦国乱世を生き抜いた男の嗅覚は、上杉家の衰亡を

嗅ぎとり見限ったのだ。彼は景勝の謀反を本多正信に訴えでた。

 家康にとり待っていた季節が訪れ、彼の態度が一変したのだ。

 家康は伊奈昭綱(あきつな)と五奉行の増田長盛の家臣の河村長門

の両名を四月一日に、問罪使として会津に下向させた。

 両名は景勝への非違(ひい)八ケ条の弾劾文をもっての下向であった。

 これは直江山城守と親しい、京の相国寺の西笑承兌(さいしょうしょう

たい)に、家康が命じて書かせた書状であった。

 弾劾文の宛名は直江山城守兼続であった。

 これは兼続が景勝に諌言し、景勝が家康に詫びを入れるように説得

させる意図が含まれていたが、兼続はこの弾劾文に対し陳謝も一片の

妥協も示さぬ反駁文を書き送り返した。

 兼続は書院に籠り料紙を前にし筆をおろし、反駁の文を書き出した。

 それは家康を激怒させる文言から始まっていた。

『尊書、昨十三日に下着す。具(つぶさ)に拝見、多幸多幸』

 まことに人を食った文章である。

今日と明日の御挨拶はお休みさせて頂きます。


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Last updated  May 26, 2012 11:08:35 AM
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