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皆さん、大変ご無沙汰しています。
東北関東地方で震災および津波の被害にあわれた皆さまへ、 心よりお見舞いを申し上げます。 私は、4月の18日から宮城県の石巻から、南三陸へ行ってきました。 遠く離れた九州の鹿児島で、被災された皆さま方に何かお手伝いできる事 はないか?と考えていましたところ、知人の、日本自動車ジャーナリスト 協会の津々見友彦さんから、ボランティア活動費支援の要請メールが届き、 すぐにルルドの水3000リットルの提供と活動費の提供をする事を決め 「ルルド 水くばり隊」を結成! 隊長は、津々見友彦さん、隊員は同じ自動車ジャーナリスト協会の一条孝 さん、中川和昌さん、(株)日本工房社長の北浦一司さん。 私も単身九州から支援部隊に加わることにしました。 鹿児島から宮城まではトラック便で3000リットルのルルドの水を送り、 東京から2台の車で津々見・一条・北浦・吉田の4名のスタッフで出発! 途中のドライブインで愛知県から参加の中川さんと合流。 宮城までの道程は、マツダ自動車からプレマーシー、三菱自動車からは トラックキャンターを無償提供して頂き、それを運転して北上しました。 被害の大きかった石巻に着いて真っ先に目にしたのは、自衛隊員による 被害にあわれたご遺体の埋葬作業。 おもわぬ光景に一瞬たじろぎましたが、走る車の中からご冥福を祈りました。 佐川急便の営業所に行くと、ここもひどい状況で、 車が大破していたりしていて、個別の配達もできない状態でした。 石巻で荷物を積み替えて南三陸に向けて出発! 途中の道路は地震の影響で隆起・陥没して大きくうねり、橋の橋脚部分など は大きな段差の応急補修がしてありましたが、比較的スムースに移動できた ので、思ったよりも復興のスピードが早いなと感じていましたが・・・ 突然!瓦礫の山に遭遇! ▲津波による惨状が目に飛び込んできました 海岸から5~6キロは離れているにもかかわらず、小さな小川を津波が逆流 し、平地の家々は跡かたもなく、根こそぎ破壊されていました。 まるで戦後の焼け野が原を思わせるような光景に全員が唖然としました。 さらに進むと、3階建てのマンションの屋上に車がのっかっていたり、 病院のコンクリートの壁に、まるで大砲の弾でも撃ち込まれたかのような 大穴があいていたり、壁には津波が到達したと思われる、無数の擦られた傷 跡が残っていたり、大きな鉄骨がまるで飴のように曲がっていたり・・・・。 ここから先の状況は、まさに想像を絶するもので、あらためて強烈な水の 破壊力を実感しました。 我々は、避難所に避難している人ではなく、自衛隊の給水車も来ないような 所で、なんとか家は残ったものの水がなくて困っている被災者を選んで水配 りを始めました。 ▲高台にある一軒のお宅に水を届けました。津波がすぐそこまで押し寄せたのが解ります。 断水中で飲み水が不足しており、重い水を一所懸命に抱えて各戸に配ってあ げると、中には涙を流して感謝していただく方もいらっしゃいました。 ▲津波の難を逃れた民宿に、20人近くの方が寄り添って生活していました 長距離の運転手をされていて、海産物を鹿児島に運んでいた方もいましたし、 若い頃船乗りで、鹿児島や鹿児島の離島に荷物を運んでいた方もいました。 自分の家は助かったけど、近くに住んでいた娘さんは津波に流されて行方 不明でガックリと力を落としている方もいました。 「頑張ってください」という言葉は、上から目線だと否定する方もいますが、 あまりの悲惨さに「頑張ってください」という言葉しか表現のできない私でした。 ■テントでの生活 我々の食堂兼寝床となったテントの中です。 ▲食堂 兼 寝床のテント内 ▲テントの中で昼食の弁当作り ガスコンロ3台で食事を作ったのですが、空腹のせいか? 味もなかなかのものでした。 昼食の弁当も、一人一人の手作りで、昼弁当にホットドッグをつくりました。 弁当をつくるなんて、初めての経験でした。(笑) 夜はここに寝たのですが、一人だけ寝袋を持っていなかった私は、雪が積る 中、寒さで一睡も出来ず、耐え切れず夜中に車の中で寝てる人を起こして 運転席に寝せてもらいました。 外気はマイナス6℃! 凍え死ぬのではないかと思うくらいの寒さでした。 ヒートテックの下着にジャージ、その上にジーパンを穿いて、さらにカッパ を着て、足の裏と、背中、腰にホカロンを貼り寝たのですが、ホカロンの 暖かさを全く感じることができないくらい寒かったです。 被災地に住む人たちのご苦労を、肌身を通して感じました。 ■思いがけない喜びが 悲痛な叫びを肌で感じる中で、思いもかけないこともありました。 給水求む!の張り紙を見て高台の一軒のお家に水を持っていったところ、 『吉田 透さんですか?』と声をかけられました。 ▲ボランティアスタッフとして私が付けている名札を見て声をかけたそうです 「はい!そうですが?もしかしてお客様ですか?」 と聞くと、 「いや、うちの息子と同姓同名です」 と現れたのが平成元年生まれの吉田 透君、22歳! 聞けば、内定していた会社が津波で流されたとか。 私も若い頃にオイルショックのあおりで会社を首になったことがあるので 「人生はいろいろなことがあるから、希望を失わずに今出来ることを一所懸命 にすることだよ!」とアドバイス。 私と一緒で、笑顔の素敵な明るい吉田 透君でしたから、 きっとこれから良いことがあると思います。 南三陸の吉田 透くん、ネットがつながるようになったら連絡くださいね! 今回はいろいろな方のお世話になり、ボランティアにご参加していただいた 皆さんのご厚意がなければ実現しなかったプロジェクトです。 日本自動車ジャーナリスト協会・マツダ自動車・三菱自動車・六本木ポルシェ クラブ(敬称略)の皆さま方、途中の道路情報などを与えていただいた地元 の楽天日記の読者のみなさん、さらには現地までの高速料金の免除をして頂い た渋谷区・名古屋市役所の皆さん。 この場を借りてご協力に感謝いたします。 ありがとうございました。 (株)吉田アイエム研究所 吉田 透 追伸 私は、現地に着くまでボランティア活動は簡単だろうとなめていました。 しかし、現地でテント生活をしてみて、被災地の皆さんがどれだけ不自由な 思いをされているのか? ぬくぬくと生活している我々には想像することも出来なかった現状を見て 深く反省しました。 また、自衛隊の皆さんが黙々と働く姿を見て、その存在意義を再認識しました。 私は右翼でも左翼でもありませんが、国を守るため過酷な環境もいとわずに 被災者のために働く姿は、すばらしいと感じました。 私は独立した時から、 「困っている人たちの話を聞いて、それを解決し、喜んでもらいたい」と考えて、 今日まで働いてきましたが、国難の今こそ、それを行う時だと感じています。 被災地から帰って決意したことは、今回で終わりにするのではなく、 これから先、被災地が復興するまでの長い道のりを、共に歩まねばならない ということです。 弊社の社員にも、この状況を体験させてみたいと考え、再度ボランティア の参加も考えております。 日本人はここで原点に返り、新たな道を模索していかなければならないので はないでしょうか? 私達も微力ながら被災地の皆さま方のお力になれればと考えています。 皆様方のご意見をお聞かせください。 ※咲きかけた桜のつぼみに深夜からの雪 被災地の春はいつ来るのか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年05月10日 19時16分06秒
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