テーマ:"あすの日本を考える"(493)
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蔵之助の品格 明けて、時は元禄15年。 運命の歯車が大きく動く年となった。 この頃になると、再就職への道もなく、浪士たちは日々の生活に追われるばかりで志を一つに結束していた者たちの中にも脱落者が出はじめていた。 蔵之助はというと、毎日京都の茶屋通いに明け暮れ、これを見た世間の人は"阿呆浪士"などと揶揄したが、そんな世間の目は、むしろ蔵之助の思惑通りで、仇討ちの噂を警戒する吉良家の油断を誘うにも効果があったんだと思う。 そんな苦難の中、最後の望みであった大学の閉門は、蔵之助の働きかけで解かれんだけど、お家の再興までは認められず、大学は広島藩浅野家の預かりとなり、蔵之助ら浪士は、いよいよ仇討ちの決意を固めてゆく。 蔵之助は、これまで自分につき従った者たちに、再び同志としての誓いを立てさせ、江戸にいる同志らには上野介の動向や吉良邸の絵図面を手に入れるなど、次々に重要な指示を出し、仇討ち作戦の計画立案が本格的に始動する。 書状は、まず10月7日に京都を発って江戸に出てからの経過について述べ、近々討ち入りを決行するんだと説明。 次にこのように書き残すのも恥ずかしいことだけれどもと述べつつ、上方と江戸での脱落者の名前を掲げて、今となっては当初から同志に加わらなかった岡林杢助や外村源左衛門らの方がまだマシだと記し、チラリと本音を吐いている。 また、討入り間近に内蔵助が判断して暇を出した家来の左六と幸七の働きを誉め讃えて、二人の部下の将来を案じ、後日彼らのために口添えをして欲しいと頼んでいたりもする。 まさに理想の上司像だというほかはない。 それから、一同の目的はあくまでも亡君の面目を立てることであり、死後の見分のために用意した"口上書の写し"を送ること、いずれも忠義に厚い者たちだから、部下たちの"手厚い供養"を頼むこと、家族のこと、そして事の詳細については京の寺井玄渓(てらいげんけい)に聞いて欲しい旨を、見事な文体と筆運びで書き連ねられている。これが、昼行灯(ひるあんどん)といわれた大石蔵之助の本質なんだ。 また、討ち入りの決行日がすでに明日となりながら、最後まで具体的な日付を残さず、万一の機密保持に徹しているのも沈着冷静な"戦略家"としての優れた一面を覗かせるよね。 この頃の彼の軌跡を追うにつれて、彼がいかに優れた指導者であったかが判る気がするんだ。 つづく... お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.12.14 22:44:33
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