テーマ:"あすの日本を考える"(493)
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元禄15年(1702)12月14日、元赤穂藩 城代家老の大石内蔵助良雄以下、浪士46名は、本所松坂町(墨田区両国3丁目)の吉良邸に討ち入り、上野介の首を挙げて主君の復讐を成功させた。 討ち入り当時の江戸市中には、"木戸番"や"辻番"があり、さらに夜間外出禁止令が出ていた。それでは、これほどの大人数の武装集団が幕府のお膝元で不審な動きをしていたにも関わらず、なぜ阻止されなかったかが大きな疑問だ。 また、討ち入りを遂げたあと、赤穂浪士たちは両国橋のたもとで奉行の服部彦七の役目上の渡橋拒否には遭ったものの、両国橋は渡らずにそのまま永代橋を渡って何の咎めも受けず、トラブルにもならず、永代橋をスムーズに通行して撤収出来たというのも不思議な話だよ。 殺した生首をぶら下げ、血だらけの50名近い武装集団だというのにさ...(汗) 一説には、老中だった柳沢吉保が、"喧嘩両成敗"という幕府のルールを自分の判断で曲げて、一方的に浅野内匠頭だけの有罪を主張したことに"負い目"を感じていたという... そして、浅野家断絶に導いた人物という世間の悪評と、浪士支持へ世論が傾いていることを察して、柳沢吉保が自己保身のために手を打っていたのではないかという説があるけど、これが事実だとすると、すべてに合理的な説明がつく。 さらに、吉良家から養子を迎えていた上杉家の家老の色部安長もまた、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りすることを防ぐ事は不可能だと事前に判断していて、上杉家の立場を守るため、あえて援軍は送らず上野介を見殺しにしたというのも事実だ。 ともあれ、こうして赤穂浪士は無事に本懐を遂げ、上野介の首を挙げて多くの江戸町民に賛美されながら、泉岳寺に眠る主君浅野内匠頭長矩の墓前に報告を済ませることができた。 浪士の寺坂吉右衛門は討ち入りのあと、内匠頭の妻瑶泉院や一党の家族らに仇討ち成功の報告に廻ることを内蔵助に命じられた。 これによって、寺坂吉右衛門は一味とみなされず唯一"切腹"を免れた。 これも内蔵助の思惑の一つで、自分と共に戦った部下たちの功績と、赤穂藩の名を後世に残すために計算してたんだ。 蔵之助は、人格者で沈着冷静な上司だ。 ミクロ的に物事を見て考えるだけでなく、マクロ的視野で物事を見据えることができる戦略家だったと思う。 まさに部下にとっては上司のあるべき姿の模範だと思うんだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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