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ないものねだり

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2011.04.04
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カテゴリ:エロっぽい雑学


この世の名残り 夜も名残り


死に行くこの身をたとうれば あだしが原の道の霜


一足ずつに消えて行く 夢こそ夢の哀れなれ


あれ数うれば暁の 七つの時が六つ鳴りて


残るひとつが今生の 鐘の響きの聞きおさめ


寂滅為楽と響くなり



ご存知、心中物の近松門左衛門の名作『曽根崎心中』の一文だ。


実は砂が、若い頃、ちょっと作家になりたいと思ったりしたきっかけが、この近松文学との出会いだったんだ。 近松文学は、男女の愛憎だとか情念を描いた一級の文芸作品だ。 だけど、現代語じゃないから誰も読もうとしないし、日本の古(いにしえ)の美しい言葉文化とともに、今は失われ、歌舞伎以外では忘れ去られようとしている文芸の一つでもある。


ホントは、みんなにこうした古典文学を読んでもらいたいけど、なかなか難しい。 だから、せめて物語りのあらすじだけでも知って欲しいと思って、少し脚色して書いてみた。






『曽根崎心中』は、近松門左衛門の浄瑠璃の処女作だった。 物語は、実際に大阪で起きた心中事件をドキュメンタリータッチで近松が書き下ろしたもの。 せっかく、砂が脚色して解説するんだから、題名も色っぽくアレンジして、ブログでは『お初天神逢瀬の果て』とでも題しておこう。


『お初天神逢瀬の果て』

元禄十六年(1703)四月七日の朝、内本町の醤油問屋 平野屋の手代徳兵衛(当時25才)と、北の新地の遊郭天満屋の遊女お初(当時19才)とが、曽根崎の梅田堤で心中をした。 瓦版(かわらばん)によれば、心中の動機は、金銭トラブルと江戸転勤に悩む徳兵衛... そして、遊女のお初は田舎に身請けされ、互いに別れ別れになることを悲しんだ末のことだった。


遊女お初が、客に連れられて観音巡りをしていたとき、生玉神社の茶屋でちょっと一休みしているところへ、ちょうど得意先廻りを済ませた大阪内本町の醤油問屋 平野屋の手代徳兵衛が通りかかる。 二人は、こうして出逢いやがて恋に落ちる。


その頃、徳兵衛の叔父で平野屋の主人の九右衛門は、甥っ子の徳兵衛の将来を思い、女房の姪を徳兵衛の妻にしようと徳兵衛に縁組みと、江戸の出店を仕切るため江戸行きを迫った。 徳兵衛は、この縁談を何とか逃れるため、金の工面に奔走して、お初に逢うこともままならない日が続いた。


またこの頃、徳兵衛は友人の久平次に一時の借金を頼まれて、やっとの思いでかき集めた金を久平次に貸してやるが、後にこれが仇となって、逆に久平次の悪巧みにハメられ窮地に追い込まれることになる。 突然、降って湧いた縁談、金と義理に苦しめられ、徐々に追いつめられて行く徳兵衛...


一方、不意の身請け話に心を悩ませ、しばらく恋しい徳兵衛にも逢えず、一人で気を揉んでいたお初は、やっと徳兵衛に逢うやいなや恨み言をいうが、徳兵衛から打ち明け話を聞いたお初は、すべてを悟った。 こうして、座敷で徳兵衛が偽版を使ったと言い触らす久平次を前に、打掛けの裾に徳兵衛を匿いつつ、ため息混じりに心中を固く心に決めた。


やがて夜も更け、皆が寝静まった頃に、天満屋を抜け出しした二人は、手に手をとって曽根崎の森へと向かう。 遊郭から追っ手が掛かるのも時間の問題だった... 暗闇の中、二人がようやく辿り着いたのは梅田の堤(つつみ)の辺りだった。


堤には、大きな松と棕櫚(しゅろ)の木があった。 ちょうど、まるで夫婦のように寄り添った松と棕櫚の根本までやって来ると、二人は月明かりの中で互いの瞳を見詰め合い、ここを死出の旅路の場所と決めた。 


覚悟した徳兵衛は、お初の着物の襟を大きく開いて乳房を露にし、持った匕首(あいくち)で一刺しした。 お初の真っ白な乳房の間からは鮮血がほとばしり辺り一面を真っ赤に染めあげた。 お初はガクっと徳兵衛の腕の中に抱かれるようにして息絶えた。 徳兵衛は月を仰ぎ見て、お初に続いて自分の喉を突き刺し、お初の血にまみれた乳房に顔を埋めて息絶えた。 こうして、二人の悲恋は幕を閉じた...


二人の悲恋の舞台となった梅田から北新地の界隈は、現在では大阪の中心地となっている。 


曽根崎には、太宰府に流される途中の菅原道真が「露と散る 涙は袖に朽ちにけり 都のことを思ひいづれば」と詠んだ歌に由来した露天神があるけど、徳兵衛とお初の心中事件以降、いつしか"お初天神"と呼ばれるようになったんだ。



近松は、この心中事件を世話浄瑠璃の脚本に仕立てた。 元禄16年(1703)5月、大阪竹本座で「曽根崎心中」が上演されるとたちまち大ヒットした。 


しかし、舞台に影響された若者による心中事件が多発するなど社会現象にもなったことから、享保8年(1723)には、心中ものの出版や上演が一時禁じられる事態にもなった。











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Last updated  2011.04.04 23:55:10
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