テーマ:"あすの日本を考える"(493)
カテゴリ:だから歴史は面白い...
3世紀半ばの248年頃、卑弥呼は狗奴国との戦争中に急死して、 一旦は、男の王が卑弥呼の後継者となったものの内乱を鎮圧することができず、 結局、壹與(壱与)が女王になってようやく内乱は収束したそうだ。 新しい女王の名は、壹與(壱与)または臺與(台与)ともされる。 卑弥呼が、頻繁に魏に朝貢していたのにははっきりとした意図がある。 魏の権威を上手く利用して、狗奴国との戦いを有利に展開する必要があったから。 けれども、卑弥呼の死後、266年に朝貢したのを最後に邪馬台国の朝貢は途絶えた。 中国の記録からも、266年を最後に、邪馬台国の記述は消えている。 あれほど頻繁だった外交使節を、邪馬台国はなぜ派遣しなくなったのか... むしろ、できなくなったと解釈する方が自然じゃないかと思う。 その邪馬台国を滅ぼしたのが、敵対する隣国の狗奴国なのだと思う。 魏志倭人伝には"邪馬台国大乱"という記述がさらに気になってくる。 邪馬台国の卑弥呼は、おもに狗奴国と激しい敵対関係にあり、繰り返し戦争をした。 倭国内にも卑弥呼の敵はいただろうし、邪馬台国にも狗奴国寄りの臣下もいただろう。 そんな、戦争の混乱の中で、卑弥呼は暗殺されたと砂は思う。 世の常で、真犯人は死んで一番得をする者... つまり狗奴国だ。 狗奴国はどんな国だったのだろう... 狗奴国の狗奴は、クナないしはクヌと読むそうだ。 その昔、熊本は隈本と記され、肥人(くまびと)とも呼んだという。 また、近年の発掘調査でも、九州南部の勢力が強大だったと推定されている。 さらに、天照大神は九州の南部で誕生したという伝説がある。 もし熊本から宮崎が狗奴国であるなら、邪馬台国は大分や福岡辺りが勢力圏だったろう。 邪馬台国の所在も北九州説が案外正しいのかも知れないと思う。 いずれにせよ、邪馬台国は突然歴史から消えた。 日本が文字を持たず、記録のなかった1~3世紀頃には謎は多い。 だけど、その後の日本史を知るために重要な役割を果たし得るのは、 邪馬台国の所在ではなく、狗奴国の所在の確定の方だと思う。 さらにいえば、卑弥呼を殺しライバルの邪馬台国を滅ぼし、 膨張した狗奴国が、大和王権成立に大きく関係したと観るべきだと思う。 ともあれ、卑弥呼は実在したし狗奴国の官狗古知卑狗(きくちひこ)も存在した... ~完~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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