Neumeier Illusion Like Swan Lake Part 4 -Act 2-
Neumeier Illusions Like Swan Lake Part 4 -Act 2-N:僕がいくら しようとこの2幕は劇中劇(theatre in theatre)シーグフリート、(ノイマイヤーの発音)はキャラクタリスティックでもちろん金髪。衣装は王が幽閉された時に着ていたブルーの衣装に大変よく似ている。ここで王は信じられない出来事を眼にする。一羽のスワンが美しい人間に姿を変えたのだ。(アンナ・ポリカルポヴァ)王は強い反応を示す。(S;椅子から立ち上がる)これは完璧にアーティフィシャルなもの。芸術作品のようで、人間ではない。王はたちまち魅了され、次第に恋に落ちていく。王が舞台に足を踏み入れても劇は続いていく。ジークフリートはみなが期待するとおりの、このバレエで果たすべきノーマルなリアクションを示す。「スワン・レイク」のオリジナルの振付はどんなだったかとは、よく言われることであるが、我々は本当にそれを知っているとは言いがたいと私は思う。当時のドキュメントが再構築できるほど明瞭でないからだ。それに主要なステイティックス(?)が変わっていて、我々が眼にしているものは19世紀の終わりごろに上演されていたものとはアナトミカリー(=anatomical)には違うものだ。だから語れるのは伝統についてだけだと思う。セント・ピーターズバーグのマリインスキー劇場やモスクワのボリショイ劇場やロンドンのロイヤルバレエでは残されていた(=preserve)伝統。このバレエがどう踊られるべきか、受け継がれてきた。たとえばスワンクイーンがプリンスと話すパントマイムのシーンだ。これはとても美しい、言わばサイン・ラングリッジで、イギリスの伝統だ。これはロシアがソビエトであった時代に失われたものだ。なぜなら彼らは作品の退廃的な(=decadent)デカダントな要素を捨てて、単純な動きに置き換えたかったからだ。もっとわかりやすい言葉で置き換えるべきですね、--- 彼らはアーティフィシャル(作り物)っぽいジェスチャーを捨てて、もっとリアリスティックな形のパントマイムにしたかった。ここで強調しておきたいのは、この舞台上で展開されているのは、ほんとのドラマじゃないということです。我々のフィルムの中でのほんとのドラマはキングのこの(バレエ)パフォーマンスとの関係性なのです。S:ノイマイヤーが初めてアメリカで見たスワンレイクの話を語る。S:プリンセスナタリアがアレクサンダー伯爵に案内されてこの秘密の劇場に入ってくる。彼女は王を理解するために来た。そこで眼にしてしまう。スワンクイーンと踊るキングの姿を。パントマイム"Prince Siegfried, please, please don't shoot my girlfriends, my swans."パントマイムを解説するノイマイヤー。「私はあなたのスワンは二度と撃ちません」「ありがとう」(中略)N:(2幕のスワンたちの群舞を見ながら)もちろん、この馴染み深いダンスの振付が何であるかを語ることは難しい。どのバレエ団のヴァージョンもよく似ている。よく調べて見るとタイミングとか、音楽性とか、腕の動きとか、かなり違いが細部(subtle = 微妙な)においてあるのだが。私は今日(こんにち)のクラシックバレエに携わる振付家の仕事は、私が思うに、バレエがどのようにものになるのか、自分の選択、自分のテイスト(好み)をまっとうすることなのではないか。どんな可能性でもある。その振付家がわれわれ観客に何を見せたいのか。それは振付家の選択とテイストにかかっている。「白鳥の湖」の2幕や、「ジゼル」の2幕や、アシュトンの「リーズ(の結婚)」、「眠れる森の美女」において振付家の選ぶタイミングなのだ。さて、我々は言ってみれば中核の部分に達した。あらゆる「スワンレイク」において有名なスワンプリンセス、オデットと王子のパドドゥだ。これはバレエの歴史においてかなり重要な瞬間だ。なぜなら我々は最初にパントマイムを見ましたね。サイン・ラングリッジを用いて、「私は白鳥の女王です。」涙を流し、湖を指差す。ゆりかごの動作をして母親を表す、しかし、このもっとも有名な白鳥と王子のパドドゥもうこれにはパントマイムは必要ないのです。なぜならこのすばらしい、純粋なダンス作品の振付を通して、愛、状況、感情の高まり、それらはまったく明快で、ひとつのものとなっているのです。動き、感情、緊張、欲望、意味が。このいわゆるパドドゥに関しておもしろいのは、私がさきほど説明したモンテカルロのバレエの祭典で上演されたオリジナルヴァージョンでは、男2人で始まるということです。伝統的なスワンレイクでは、王子はいつもべノーという友達といっしょにいるのです。ある意味、私はグラフ・アレクサンダー、アレクサンダー伯爵のアイディアをここから思いつきました。1幕では王子はある種信頼感を持っている。この信頼しあっている(=confide)親友がいる。そしてこのパドドゥで私たちはショッキングなものを見る。王がバレエをただ見て感じているだけでなく、その舞台に入り込んでいく。その瞬間を見ると、DVDを巻き戻してくれればわかるのだが、コールドバレエが止まってしまう。何か変なことを王がしているのだということがそれでわかるが、やらせるほかはない。彼は王なのだから。彼がやりたいことはスワン・プリンセスのイメージとのダンス。彼女は人間的でなく純粋に白い。非現実で美しい。だからこそ、彼女が非現実だからこそ、王は愛せるのだ。これは人々が映画や本のキャラクターに恋するのといっしょだ。実際にルートヴィヒはワーグナーのオペラのキャラクターに魅了されたのだったが、ここでは、彼は自分の個人的なパフォーマンスのために舞台に踏み込んでいく。現実と幻想との奇妙な融合を目の当たりにする。私が思うに、私にとっては、これは、コンテンポラリー(現代)の振付家がこのスワンレイクのようなすばらしいクラシック作品にアプローチすることが可能であると決意した瞬間だった。私はできたと信じている。私がバレエの中心的なシーンをどう踊るか定義する時に、(define= 定義する)ボリショイ・バレエやセント・ピーターズバーグでどうやってるかビデオを見て、ステップを教える前に、もっとも私が知っておくべき重要なのはなぜ、彼らがそうやっているのか、そのステップの背後にあるものは何か、そのステップが最初にそう創作されたのは何が理由なのかだ。私が思うに、基本的に、オリジナル版の台本(=libretto)のすべてのアイディアはピーター・チャイコフスキーの音楽の中にある。間違いない。それは到達できない愛、成就できない愛というアイディアで、この作品の悲劇たるゆえんだ。それは同時にチャイコフスキーの人生の悲劇であり、ルートヴィヒ2世の人生の悲劇でもあると思う。そしてすべてが合わさってこそ、私がこのヴァージョンを製作できたのだ。翻訳し、歴史的な人物像を参照し、チャイコフスキーの信じがたいほどすばらしい音楽を用いて。1幕の最後の王のナタリア姫とのパドドゥを思い出すと、彼の不安定さ(=insecurity)、彼の愛への渇望、何かを感じているある種の渇望、それらはこのパドドゥではまったく異なっている。伝統的なダンスにおいては、彼の感情は明らかだ。あけっぴろげに感情をあらわにする、なぜなら彼は強い存在だからだ。(群舞についての解説、アレクサンドラ・ダニロバが教えてくれたこと、)(ポリカルポヴァについて)オデット姫を踊っているアンナ・ポリカルポヴァはマリインスキー劇場のワガノワバレエスクールでバレエを習った。彼女はそこのすばらしい組織の典型的な作品と言える。特に上体の腕の動き。すばらしくスワンプリンセスとして西側社会各国でも受け入れられている動き、美しく、言ってみれば、ロシアのクオリティー、コーディネーションが彼女の腕にある。それはその学校のおかげなのだ。しかし彼女は長年ハンブルク・バレエのメンバーだ。でも、おかげさまで、我々が変えない確かなものがそこにあるのだ。(オデットと王のパドドゥが終わり、傷ついたナタリア姫は退場する。)ナタリアは経緯をじっとあまさず見ていた。しかし後に我々は、彼女は帰った後もちゃんと宿題をしていたのだと知ることになる。(四羽の白鳥の踊り)いつもショッキングだと思っていたのは、もっとも記憶に残るパドドゥの後にチャイコフスキー、イワノフがこの四羽の白鳥を持ってきたことだ。もちろん大衆の好む踊りだ。コールドバレエの若い女性たちの一体となった正確なすばやい動きで技巧を披露する踊り。…あのパドドゥのあとの冷たいシャワーだと解していた。---しばしば微妙な、しばしば大きな違いが見受けられるが、あらゆる大きなバレエ団の確実な(=authentic)演目であるだろう。(二羽の大きな白鳥の踊り)----ジャンプの技巧、エネルギッシュな の披露。この映画では、ただ客席に座って見ているだけではないよう、カメラを用いて違うダイナミックなイメージを、見せている。(オデットのソロ)さて、非常に有名なオデットのソロだ。難しい、超絶技巧、ゆっくり、それだけでなく、何か感情的なもの、シチュエイション、女性の、彼女の感情、彼女の望み、ジャンプに翻訳してイメージはこの動きをするのは何を考えているからか教える、とてもドラマティックなものを。典型的な、強調したい、マネージュ、サークル、デモンストレート、感情的な特別なクライマックスだ。グループダンス、四羽のダンス、二羽のダンス、「白鳥の湖」において、スワンのスカートはどのくらい長くあるべきか、という問題がある。元々は、チュチュは、バレエのスカートは比較的長かった。そしてかなり大きなシェイプだった。前世紀の中頃にはロシアでは短いチュチュになった。ユルゲン・ローズと私は復元しようと決めた。その頃のバレエのチュチュの長さに1890年代頃のものに。これらのキャラクターは劇中劇の登場人物なのだと分からせるためだ。そしてまた王は舞台に入っている。王は突然、完全に幻想の白鳥の湖のジークフリート王子になってしまった。有名なキャラクター、王は完全に飲み込まれた。彼はオデットに反応する。彼は「あなたを愛しています。あなたと結婚します」と結婚指輪をする指を指差す。ロースバルト彼が、オデットをスワンプリンセスに変えた。時間切れが迫っている。今や、彼女白鳥の姿に戻らねばならない。王は何もできない。悪の力が強い。そして王は完全に劇場と幻想の区別がつかなくなった。 <第3幕解説に続く>