カテゴリ:読書日記
最近いちばん気に入っている書き手のひとり。
内田樹(うちだたつる)である。 名前の字面だけを見て美人ライターだと思わないように。 1950年生れ、東大仏文卒のれっきとした大学の先生でオジサンである。 知識人には50代に入ると急にせっかちになってどうしちゃったの~という人が多いが、この人の場合はそういう心配は一切ない。 自分に対しても世間に対しても十分に抑制的だし、少なくとも文章上の人格は快活だし、なにより穏健な毒舌という持ち味が好きなのだ。 今日よんだ『ためらいの倫理学』にもそれは反映されている。 私はこの人とは気があいそうだと思っているのだが、たとえば次のような文章なぞ、私の常日頃の考えとの共通性を感じて、小躍りしたくなるほどうれしい。 私は「邪悪な」人間である。… こういうことを公言すると、心優しい人々は憂い顔になって、困った様に私を見る。 しかし、これは大事な情報だと私は思う。 「この先危険、カーブあり」とか「この先、熊が出ます」とかいう標識と同じで、「この人は邪悪なところがあります。この先、取扱に注意」という看板を私はおでこに貼っているのである。…ある意味ではたいへんにコミュニカティヴ(ダビドフ註:対話的)な態度といえるのではないだろうか。 私が言いたいのは、もし「邪悪さ」の程度や性質が適切に表示されているならば、周囲の人たちは「邪悪さ」の被害というものを最少限度に抑えることができるはずだ、ということである。これは逆の場合の「自分は善良であると信じこんでいる人間」のもたらす迷惑に比べるとずっと管理しやすい。 善良さの神話に対し、このようにちょっぴりからめのコメントをする。しかし自分自身を議論の対象からはずさないという態度でマイルドさを確保している。 料理にたとえるなら過激一辺倒の知識人がココイチの激辛カレーとすると、内田樹は完成度の高いタイカレーというところだろう。 戦争も、フェミニズムも自分じしんを議論の対象からはずした人々によって、穏健さを失い、愚かな非難合戦に堕落しがちだ。 過激にはしりやすいこういう時代にあって、内田のような知性はとても貴重だと思う。 おすすめです。 戦争とか、差別っていけないと思ってるけど、大声で語りすぎるのもおかしくない?という感覚をおもちの方はぜひ一読を。 納得するフレーズに出会える確率は高いですよ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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