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渡辺一史・著 北海道新聞社
副題は「筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」 その昔。といっても10年ほど前。福祉なんかに無縁だったころ、知人が車椅子の障害者の介助をしていると聞いて驚いたことがあります。仕事もしながらなぜ、ボランティアなんてできるんだろう。自分のことしか考えてこなかった私は、不思議でしょうがなかった。と同時に、その人がうらやましく、自分なんて役にたたない人間だなあと自覚しました。 なぜ、ボランティアをするのか。ボランティアの気持ちを探ろうとして、難病の鹿野さんをめぐる人間関係に足を踏み入れた筆者が、結局は自分も巻き込まれ。介助する側、される側の、微妙な人間関係や感情のバランスを知り、障害をもつひとがフツーに生きていくということのすさまじさを描き出しています。 美談やきれいごとではすまされない世界。障害者は決して善人でない。みんなコノヤローと内心思いながら、そういう自分の気持ちと折り合いながら介助に入る。難しいのは、完全に言われるままになってもいけないところ。ある程度適当にあしらいながら、時には意見をしながら、大事なところでは相手を許容する。。。なんと、究極の人間関係が、鹿野さんの周りにはある。人と人とのかかわりが希薄な現代にあって、ボランティア募集のチラシにひっかかる人は、生のてごたえを求めている人のようです。 鹿野さんは、ワガママでなければ生きていけない。先生の立場でボランティアに介助を指導し、夜中でも容赦なく起こしていろいろな欲求を伝える。感謝されたくてボランティアをする人には耐えられないだろう。 普通の人は、迷惑をかけないように、と、生きている。彼だって、難病を患わなければそうやって生きていただろう。でも何もかも人に頼らなければ、人に遠慮していては、生きられないのだ。その代わり、ボランティアがやめていくことや、眠ったら死んでしまうのではないかという怖さを常に背負いながら生きている。24時間人の目にさらされるというストレスを甘んじてうけなくてはならない。 そういったつらさを引き受けたうえで、在宅生活を選んだ勇気。自分らしく生きるなんて、人々がファッションのように言っていることが、いかに難しいことなのか。 筆者は、鹿野さんが病院を出て暮らすことになる経緯を描く中で、北海道を中心とする障害者運動の歴史についても丁寧な説明をしています。人間が生きていくことや、人と人とがかかわる意味を探ったすぐれたノンフィクションであるとともに、障害者福祉の現状、難病患者へのサービスの課題、ノーマライゼーションとは何か、といった、いろんな知識を得ることが出来る一冊。 私もすすめられて借りて読みましたが、買っておいて折に触れて読みたいと思いました。 この本の書きぶりとして、ボランティアと鹿野さんの言葉をつづった回覧ノートの生の声と、当時を知る人たちへの丹念な取材と、自らがボランティアで入ったリアルタイムでの経験とが、うまく融合されています。しかし、鹿野さんをめぐる人たちのなんとユニークなこと。年齢も職業もさまざまだけど、彼ら一人一人の生きてきた人生が合わさって、ものすごい厚みのある内容になっています。 筆者が本を書き終えようとしているところに、鹿野さん危篤の報せ。なんと、筆者は、その死の前後に立ち会うことになります。ボランティアに責任を問わないと約束して、在宅生活に入った彼が、死ぬ間際に家族も、親しいボランティアも遠ざけて。医師と看護士と、雇ったプロの付添い人に見守られて死んだ。この事実を何も思わずに読んだあとで、筆者の指摘に「あっ」と息を呑みました。つまり。下手に在宅で、ボランティアたちに囲まれて死んだ場合、必ず彼ら、彼女らは、そのときの処置をめぐって後悔やら責任を感じてしまうだろうということを、鹿野さんは予想し、万全の医療体制の中で、あえて、「今が死に時だ」として死んだのだろうというのだ。もしそうだったら、、あまりに見事すぎる生き方ではないだろうか。 ワガママを言われ放題であっても、それでもやめずに介助を続けてきた人たちは、やはり、鹿野さんとのかかわりを通じて、いろんなことを得たのだろうと思います。生きるということはこんなに、大変で、激しくて、つらくて、すごいことなんだと。改めて思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.06.30 02:13:13
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