全米オープン2
結局準々決勝は3-6、7-5、7-6、6-7、6-4でワウリンカに競り勝った。
1918年の熊谷一弥以来となる96年ぶりの4強入りを果たした。
準決勝ではジョコビッチ対マリーの勝った方と戦うことになる。
まあ、新聞の一般紙のWEBまで一面速報で出てしまったのでちょっと騒ぐのは先にして(まだ終わったわけではないので) くまがい いちや について調べてみた。
『1913年12月、熊谷は慶應大学のチームメートとともにマニラの東洋選手権大会に派遣された。これが、日本人テニス選手の初めての海外遠征である。この時熊谷はシングルス準決勝とダブルス決勝に進出したが、単複とも優勝した全米ランキング2位のジョンストンから大きな刺激を受けた。
1916年にマニラで行われた東洋選手権大会には三神八四郎とともに出場し、シングルスでドーソン、グリフィンを破って優勝したが、ダブルスではドーソン&グリフィン組に決勝で敗れた。
1916年、熊谷は三神と共にアメリカ遠征を実行し、ジョンストンを破るなどして注目される。
1916年全米選手権において、熊谷一弥と三神八四郎の2人が、日本人テニス選手として最初の4大大会出場者になった。この遠征で、熊谷はいきなり「全米ランキング5位」のポジションにつけた。
軟式テニスの標準的なグリップであるウエスタングリップを左利きで駆使した熊谷のテニスは、世界のトップ選手たちからも注目されるようになった。
慶應大学を卒業後、熊谷は三菱合資会社銀行部に勤務するようになり、ニューヨーク駐在員となった。
1918年の全米選手権で、熊谷は日本人のテニス選手として初のベスト4進出を達成する。日本人選手初の準決勝では、ビル・チルデンに2-6, 2-6, 0-6のストレートで完敗した。
1919年に熊谷は全米ランキングでも「3位」に上がり、第1位ビル・ジョンストン、第2位ビル・チルデンの2強豪に続いた。』
慶應大学から三菱東京UFJ銀行へ行ったエリートが全米3位というのもなんだかなあと思うが、多分当時アメリカに行くだけでも洋行と言って大変なことだったのだ。
軟式庭球の厚いグリップ、いわゆる軟庭グリップで持つとコートに入れるためにドライブをかけていた。そうドライブと呼んでいたのだ。今はそんなこと言うと古-。と言われるのでトップスピンと言う。これボルグが出てから言われだしたのだ。しかもサウスポー。100年前でサウスポーでスピンを操ればそれは勝つだろうなと思うのだ。
熊谷は全米ランキングしかない。錦織より過去上位なのは次の4人。記録を塗り替えるたびにこれらの人の名前が出てくるはずだ。
佐藤次郎選手 世界3位 1933年25歳
清水善造選手 世界4位 1921年30歳
原田武一選手 世界7位 1926年27歳
山岸二郎選手 世界8位 1938年26歳
今、テニスの技術のレベルが世界で差がなくなってきているので、得意技とメンタルの勝負になっている。錦織はエアー圭とチャンコーチのメンタルトレーニングで天賦の才能に磨きをかけたのでベスト4に進んだのだ。