どうする家康34
第45回は方広寺鐘銘事件。 方広寺の鐘に刻まれた銘文に「国家安康」「君臣豊楽」の二句が入っていることを徳川側が問題視した事件。徳川を分断し、豊臣の繁栄を狙うという意味が込められているというもの。しかも徳川ではなく家康を分断している。 林羅山はこれ以外にも「右僕射源朝臣家康公」も右大臣秀頼が家康を射る意味だとしている。 秀頼の申し開きの使者片桐且元が駿河に来てから何日経っても家康との面会はできず、対応は崇伝に任される。崇伝が独自に受け入れられるわけはなく、家康はもとから申し開きを聞く気はなかったと思われる。 その証拠にその後訪れた淀殿の乳母である大蔵卿とは面会し、鐘銘について問いただしもせず、丁重にもてなしている。 和解案は秀頼が受け入れられる内容ではなかった。「秀頼の江戸参勤」「淀殿を江戸に人質として出す」「秀頼が国替えに応じ大阪城を退去」の三案。 家康は豊臣を滅ぼすことまでは当初考えていなかったらしい。秀頼が一大名としておとなしくしておいて欲しいというのが本音だったようだ。 次回大坂の陣が描かれるが、家康は苦戦することになる。本当は避けたかった戦なのかもしれない。