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ちくま文庫【1000円以上送料無料】広島第二県女二年西組 原爆で死んだ級友たち/関千枝子 関 千枝子さんは、あの日、お腹が痛くて学校を休んで助かりました。 爆心地から3.4キロの自宅は壊れて、被害にあっていないわけではないけれど、雑魚場町に勤労奉仕に行ったクラスメイトは大やけどをして亡くなっていったので、「休んだ」負い目が抑えて語られます。 どれだけの決意で、クラスメイトの家族に当たり、ひとりひとりの臨終に至るまでの証言を集められたのだろう、と、生きてこの本を読む私も心が痛いです。 13歳、14歳。まだまだこども。ほんのこども。すぐに忘れられてしまうこども。だって長く生きていない。エピソードだって少ない。本人が20歳になって、30歳になって、60歳、80歳になったとき、自分でも忘れてしまう2年生の日々。けれどいた。確かにいた。少女たち。 「いたのよ!」 自らの苦痛を抑え込んで著者が叫んでいると感じました。 「わたしの級友は、先生は、確かにいたのよ!!」 生き残った人があの日を語るには勇気がいるのだと思います。 わたしの祖父母は4人とも被爆者でしたが、ほとんどあの日を話しませんでした。 直接に被爆した母方の祖父は被爆体験記を何かに掲載してもらっていた記憶がありますが、入市被爆した祖母はほとんど何も残しませんでした。 思い出したくない。 話せない。 その記憶の記録です。 勤労奉仕で被爆した県女の女学生の記録として、大野充子さんの「ひーちゃんはいった」という著書があります。 体調を崩したひーちゃんに、お母さんは休め、という。「死んでもしらんよ」というお母さんに、くるっと振り向いて、ひーちゃんは「ひーちゃん、死んでもいい!」と言って、8月6日の朝、出て行った。 記憶です。わたしはこの本を小学生のときに読みました。高校生の時、平和学習で見たビデオに、老母が写っていました。語られた証言で気づきました。 「この人はひーちゃんのお母さんだ。」 私にも寿命はあるから、いつまで覚えていられることかわかりません。 けれど、つながったよ、つながっているよ、と言いたかった。言いたいので、今日のブログを書きました。 「ひーちゃんはいった」は、探さないと読めないようです。「碑」や「広島第二県女二年西組」、記憶の代わりの記録がどうか残りますように。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年08月10日 09時18分38秒
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