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やすっぽいタイトルだなあ・・・。
今日はいつか書いた潔癖症のママ友達のことを書こうと思います。 彼女はあののち、3ヶ月間天理で修養生活をおくって帰ってきました。 旅立つ前は、旦那さんの歩いたあとをアルコール消毒し、畳の部屋には素足で入れないというほどの潔癖症でした。子供同士遊ばせていても、転ぶとお子さんの手を即消毒していたのが思い出されます。旦那さんはそういう彼女に限界を感じ、離婚の危機となっていたのですが、彼女はその3ヶ月の間に特殊な伝染病にかかり、今までとは逆に周囲から隔離され、消毒されるような状態となりました。彼女はその出来事を通じて、初めて旦那さんの気持ちを身をもって知り、涙しました。そして旦那さんのもとに戻ったら新たな気持ちで夫婦としてもう一度やりなおしたいと心から思うようになったのでした。 帰ってきてすぐに、旦那さんに自分の体験した出来事を通じて、何を感じ、これからどう変わってゆきたいかを話しました。すると旦那さんは彼女のその言葉に、凍っていた心を溶かされるかのごとく感じ入り、二人はふたたび夫婦としてやってゆくこととなったのです。 彼女の体が旦那さんを受け付けず、完全にセックスレス状態で約4年が過ぎようとしていたのですが、不思議なことに、帰ってきて一ヶ月ほどたつと、じわ~っと体が熱くなって、旦那さんと奇跡的に復活したそうです。私は本当にうれしくてたまりませんでした。子供も一人で十分、と言っていたのに、最近では「二人目がほしくなってきた」と言います。彼女のおかげで、私の心もあたたかくなってくるのを感じています。本当によかったなあ・・・。ちなみに、ママの顔色をうかがってばかりいた二歳の娘さんは、しっかりと自己を表現するようになりました。こ、こんなにはねっかえりだったの!?とこちらがタジタジすることもしばしば。お母さんも以前は細かいこと一つ一つにヒステリックになってたのが、集団生活を送ってきたせいで、かなりおおらかになりいつもほがらか。子供もそんなお母さんに安心しているんだろうね。 この世はかならず通り返して清算しなくてはならないようにできているのだと言われます。 生きている間に通り返して掃除できるといいなあ。 来世に嫌なものをもちこさないよう。 信仰はけっして癒しや慰めといった気やすめ的なものじゃないということを、このごろ痛切に感じています。生きているということそのものだなあと。信仰しているがゆえに、逃げたり負けたりしそうな苦しいところを、あえて通って果たさなければならないときもあるしね。前述の彼女の例のように。(彼女も途中で帰ってくることができたわけだから。)でも通りこした先には必ず輝かしいあたたかいものが待ってる。それを信じさせてくれ、連れて通ってくれるのが信仰だと思う。変化には時間がかかるから、途中ですべてを捨てたくなるときもあるけどさ。 私も今がどんな状態であれ、しっかり受けとめ、喜んで通っていきたいもんです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年01月19日 14時11分38秒
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