佐賀県小城市 『須賀神社』
中世肥前国主と呼ばれた千葉氏の居城、千葉城のあった小山に鎮座する神社。「祇園さん」「おぎおんさん」と呼ばれ親しまれている。御祭神は健速須佐之男大神(タケハヤスサノオノオオカミ)、櫛稲田姫大神(クシナダヒメノオオカミ)。無病息災、開運厄除、家内安全、五穀豊穣、産業振興の神として深く信仰されている。創建は803年(延暦22年)で、当初は「清祠」と称されていた。1316年(正和5年)に千葉胤貞が下総国から九州へ下向する際、京都の祇園社(現在の八坂神社)の御分霊を勧請し、この地に鎮座した。戦国時代に千葉氏が衰退し千葉城が落城した後は、龍造寺隆信が社地・社領を寄進し、1590年(天正18年)に鍋島直茂が本殿を修復し、1591年(天正19年)には拝殿も修復した。1870年(明治3年)に社号を祇園社から須賀神社に改め現在に至る。年間を通して3回の祇園祭があり、2月に花柴祇園祭、7月に団扇祇園祭、9月に柿祇園祭が行われる。中でも団扇祇園祭は鎌倉時代から始まった勇壮な山挽行事で、3台の山笠が下町から中町を経て上町の祇園社前広場まで引かれ、再び元の場所に引き戻される。無病息災を祈願する祭りとして受け継がれ、古くは「見事見るには博多の祇園、人間見るには小城の祇園」と称されるほどの賑わいを見せた。他にも2月に祈念祭、11月に新嘗祭が行われている。一の鳥居。一の鳥居の目の前にある、村岡総本舗本店と羊羹資料館。小城の名物である小城羊羹発祥の地。羊羹資料館の建物は国の登録文化財に登録されている。総本店に隣接する羊羹資料館では小城羊羹の歴史や製造工程の紹介、羊羹に使う材料や手作りに使われていた道具の展示がされている。須賀神社社号碑と太閤腰掛石。豊臣秀吉が1592年(元禄元年)文禄の役の際、茶を片手に腰を掛けて休んだ石と伝えられる。祇園川に架かる神橋を渡った先には、鳥居から拝殿まで長い石段が続いているのが見える。二の鳥居。小さな手水舎。御手水の小川。神門。くぐって石段を上り、いざ拝殿へ。ただし、本当に勾配が急なので健脚でなければ無理はしない方がいい。神門にある賽銭箱に銭を入れて参拝することも可。また、右側の方には緩やかな山道を登って参拝するルートもあり、こちらから拝殿に行くことも可能。急勾配の長い石段を上って社殿へ。一直線に伸びる石段は153段も続いている。石段のちょうど中段に立つ肥前鳥居。当社の鳥居の中では最も年季の入ったもののようだ。肥前鳥居をくぐれば社殿まであと少し。長い石段を上り、拝殿に到着。拝殿は1591年(天正19年)に鍋島直茂が修復したが、1828年(文政11年)に火災により焼失。現在のものは新たに建て直されたものとなっている。本殿。こちらも鍋島直茂により1590年(天正18年)に修復されるが、焼失し新たに建て直されている。社殿の右手に鎮座する宝貴稲荷神社。御祭神は保食神(ウケモチノカミ)。千葉城跡。現在は展望台が建っている。千葉城は別名祇園城とも呼ばれ、いつ築城されたかは明らかでないが、南北朝時代から室町時代にかけてのことと推測されている。中世の小城は千葉胤貞が小城に下向したために関東千葉氏の本家が支配し、小城・佐賀・杵島を支配下においたという。1470年(文明2年)の千葉氏内乱により起こった土一揆合戦と1546年(天文15年)の龍造寺家兼の馬場頼周攻略の時に大きな被害を受け、千葉城は荒廃していった。近年になって焼物などが出土し、1971年(昭和46年)に小城町が土地を譲り受け千葉公園として整備し、現在に至っている。展望台から見た景色。小城の町並みと広々とした田畑が広がっている。春になると桜も綺麗。大楠神社。御祭神は楠木正成公。智、仁、勇の三徳を持った聖人と言われ、勝負の神様や信頼の神様として崇敬されている。現在のお社は安政年間に奉移されたもの。大楠神社の周辺にある石祠。境外社の天満宮。御祭神は菅原道真公。学問の神様として知られる。須賀神社の楠。樹高28m、幹周り1.5m、推定樹齢400年のクスノキの巨樹。御神木だろうか?↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてねにほんブログ村