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カテゴリ:山口県
山口県防府市 『防府天満宮①』の続き。
春風楼。国の登録有形文化財に登録されている。通称は通夜堂。1822年(文政5年)に長州藩十代藩主の毛利斉煕によって五重塔として建立を始めたものの、財政難により中断、1873年(明治6年)に楼閣様式にして完成した。元々は祈願者の通夜堂(宿泊場所)として使われていたが、現在は奉納行事の場所として、また参拝者の憩いの場として使われている。ちなみに春風楼の周辺は鳩が沢山おり、餌やりができるようになっている。 春風楼から見た景色。防府の街並みが見渡せる。訪れた時は桜の木も綺麗だった。 客殿。 野村望東尼の碑。1枚目は"もののふの あたに勝坂 超えつつも 祈るねきこと うけさせたまえ"、2枚目は"面白きこともなき世をおもしろく 晋作 すみなすものは心なりけり 望東尼"と記されている。1枚目の歌は望東尼が討幕軍戦勝祈願のために防府天満宮に参詣し、天神様に奉納したもので、2枚目の歌は高杉晋作の辞世の句として非常に有名。 天満宮灯籠。正面に大きく天満宮と彫られた自然石の灯籠。天神様の依代として崇められた。 須賀社。御祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)他10柱。産業発展、疫病除けの御利益がある。 老松社・若松社。御祭神は不明(一説に島田忠臣とも)。子孫繁栄、夫婦和合、五穀豊穣の御利益がある。かつては石大鳥居脇に鎮座していた。 戦勝祈願詣の石柱。幕末に防府市の住人が奉納した碑で、幕末の志士達の戦勝祈願の千日詣開始と終了の記念に建てられたもの。戦勝祈願の神様と言えば八幡様が一般的だが、天神様に奉納するあたり、高杉晋作をはじめ長州藩の天神信仰が篤かったことがうかがえる。 愛宕社。御祭神は軻遇突智命(カグツチノミコト)他9柱。火難除け、五穀豊穣、商売繁昌の御利益がある。 貞宮遥拝所。貞宮多喜子内親王は明治天皇の第十皇女として御誕生されたが、数え3歳(満1歳)で夭折された。ここには多喜子内親王の遺品が、教育係だった楫取素彦によって納められた。楫取素彦の意思を継ぎ、多喜子内親王の命日にあたる1月11日には毎年途切れることなく遥拝式が斎行されている。 楫取素彦・美和子銅像。貞宮多喜子内親王教育係を務めた楫取素彦とその妻美和子の銅像。多喜子内親王を偲ぶようにして、夫婦の目線は常に遥拝所の方を向いている。 展望台。 展望台から見た景色。広々とした防府の街を一望できるが、訪れた時は周辺の桜が非常に美しかった。 長州藩七代藩主毛利重就公の銅像。重就公は財政の確立や産業の開発、教育の振興を計り、また防府を愛し、天満宮社殿の造営や塩田の開発に努めた。1782年(天明2年)に御茶屋に隠居し防府の発展に尽くし、1789年(寛政元年)同所で亡くなった。 茶筌塚。 筆塚。 紫雲石。宮市門前町の豪商、松原屋の松原弘基が命名した霊石。願い事をすると必ず叶うとされ、松原屋はこの霊石のおかげで富豪を成したんだとか。弘基の子息が当社参拝の方々にも御利益をいただいてもらおうと境内に移し、孫の弘詮が台石を造っている。 嗚呼海軍少年電信兵の碑、防飛二期生の碑。 針塚。 天神本地観音堂。本尊は十一面観音菩薩。脇に毘沙門天と不動明王を祀る。千数年前に創立され、防府天満宮創立以後は奥の院となっていた。菅原道真公の母が観音様を信仰していたという。 参集殿。 御神庫。 梅林。梅は菅原道真公が愛していた花で、太宰府の飛梅の伝説からもあるように、道真公を象徴する花として知られる。防府天満宮にも16種、約1100本もの梅の木が境内に植えられており、2月下旬になると花が咲き境内を美しく彩る。訪れた時は木に新しい葉が付き、青々とした実がなっていた。 ↓ランキング参加中。この記事が良いと思った方はクリックしてね にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.05.22 21:01:09
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