相手の親の何といっても絶対謝らないっていう姿勢と
対峙している最中に考えていたのは、
これって自己中心的自信からくるのか、
それとも、何かを恐れての虚勢なのかしらと。
わたしはそこまで絶対言い切る自信がない。
っていうのは、同じ言葉でも相手の受け取り方によっては、
いい解釈をされることもあれば、悪い解釈をされることもあると思うから。
せがれに悪気があろうとなかろうと、
相手の子にとってうっとおしいと思われれば
悪意のある子供として相手の親の目にも映るんだろう。
それがわかってるのに、うちの子は絶対に悪くないです!
なんて、言いきれない。。
かといって、何もかも黙っていられるほど、
おとなしくもして、いられないのよね。。
ホントのところどうなのか、どっちが悪いとかより
そこが知りたかった。
自分がかつてそうだったように、子供って純粋無垢ではないと思っている。
せがれも、相変わらず幼いところもまだまだ残しつつ、自分に都合のよいことを
言うところもあるんだって知っているし、それが人間らしさってもんで。
どんな人でもいいところと悪いところがある、自分だってそうだし。
なんとなく、今まで生きてきた中で諦めというか処世術というか、
物事にあまりこだわらず、引きずらず、という気持ちの切り替えを覚えている。
人を変えようと思ったり否定するよりも、そのままを理解したほうが楽。
あとは自分の都合に合わせて、付き合うかどうか、決めたらいいんだから。
それがいいのか悪いのか、それ自体にも自信はないんだけど^^;
第一、大人であれば、常識的にふるまうべきと思っているので、
妙に感情的になるなんて、恥なんじゃないかな、と思ってしまう。
子供の立場を考えたり、非常識な人間にはなりたくないと思ったので、
最後に付き合わせた、上級生や二人の母親にたいしてのつもりではあったけど、
すみませんでした~と言った。
相手の母親はわたしにも、周りへも、一切そんな言葉をかけず
去って行ったので感じ悪ぅ。。あーなんで謝ったんだろう。
言って損した、バカだったと悔しい気持ちになった。
でも、この先顔を合わせても、
少なくともわたしもせがれも気まずい思いをする必要はない。
わたしは間違ったことは言わなかったと、自分を自分で慰めた。
嫌な思いをし、悔しい気持にはなったけど、
隠れてコソコソ悪口言われてるより、
はっきり相手が言ってくれたのは良かった。
問題に気づかないまま、こじれてややこしくなるより
はっきり言われたことで、せがれに対処の仕方を教えたり
相手に気を付けるように対応できるようになったわけだ。
今は多数派な人だって、出るところへ出れば、少数派だって思い知るんだろう。
それを恐れて、何かに所属したがったり、群れたがったり、安心しておきたいし
何か不安に思ったら、出る杭をたたいておきたいんだろうか。
ママ友づきあい、近所づきあい、はこじれたらややこしい、
誰かに取り込まれることも面倒だからと、
一線を引いて当たり障りなく付き合ってきたと思うんだけど、
それでもこんな風になってしまうのは、わたしにも悪いところがあったのか、
反省すべきところは反省しよう。
この先も大変なのはわたしじゃなくて、
実際矢面に立つのはせがれなわけで。
とにかく、せがれを応援するためにわたしが今、ここにいる。
厳しくも少数派で立ち向かっていかなければいけない。
こだわったり、引きずっていたりしていては、せがれの立場を悪くするだけ。
実際のところ、どうなっているのか見守りながら、気をつけよう!と心して。
その後、せがれの様子を見ていたけれど、
別に引きずったようでもなく普通だったのでちょっとほっとした。
あとは自分の気持ちを整理して引きずりたくないので、
ブログに書いてスッキリしよう!と何度も書きかけたけど、
こだわっている間はなかなかうまくいかなかった。。