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2005/01/19
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カテゴリ:中国事情
趙紫陽についてひとこと。
 趙紫陽さんは、文革時代67年には「陶鋳の走狗」と批判され失脚しました。復帰した後は四川省第一書記、省長として経済改革に取り組み、農業請負制と企業自主権の拡大で大きな実績をあげ、そのことが「四川の経験」と評価されて、79年中央政治局委員になっています。
 そして、80年4月副総理として中央入り。同年9月華国鋒に代わって総理就任。82年9月の12全大会で政治局常務委員になり、トウ小平のバックアップのもと、胡耀邦総書記とのコンビで改革開放に取り組みました。つまり、経済改革のプロだったわけですね。
 87年1月、民主化運動への対応を批判され解任された胡耀邦総書記のを引き継いで、総書記を代行。11月に総書記、中央軍事委第一副主席になりました。
 同年の13全大会では、「社会主義初級段階論」を出して沿海地区発展戦略を提起し、市場経済化を加速させました。
 さまざまな問題を抱えつつも、今日の上海の、ひいては中国沿海部全体の経済発展はこの趙紫陽さんなしには語れないのです。
 89年6月に起きた天安門事件では、民主化を要求する学生に同情的な姿勢を示したため、トウ小平ら党の主導の下、4中全会で総書記はじめ全ての職務を解任され失脚しました。その後を江沢民が継いで総書記となっています。
 2003年4月末、「北京市の自宅で急死」との情報が、中国のウェブサイトに流れたようですが、翌5月、国務院弁公室が公式に死亡説を否定しました。
 2005年1月10日にも、病気入院のためか、香港紙が死去報道を行いましたが、政府、家族とも否定していました。
 今回は本当に亡くなってしまったようです。趙紫陽さんの名誉回復は天安門事件の再評価とからむだけに微妙な問題ですが、いつか名誉が回復される日が来ると考えています。


【北京・大谷麻由美】中国共産党機関紙「人民日報」は18日、89年の天安門事件で失脚した趙紫陽・元中国共産党総書記が17日に死去した事実を淡々と伝える記事を最終ページに小さく載せた。
 人民日報など主要各紙の記事内容は、17日に新華社通信が報じた内容と全く同じで、扱いもほぼ同様だった。
 人民日報のインターネットサイト「人民網」に設置された掲示板「強国論壇」や新華社通信のサイト「新華網」の掲示板「発展論壇」などでは、趙氏死去に関する論評は見られず、書き込みが制限されている模様だ。
(毎日新聞 2005年1月18日 東京夕刊)





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最終更新日  2005/01/19 09:37:58 AM
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