テーマ:空手道(581)
カテゴリ:空手
※2009/11/1注;この文章に対する補足があります。
今日のフリートレーニングで、自分で気をつけているつもりのことが全然できていないことに先生の指摘で気づかされてと~っても悔しい気持ちになり、そんな気持ちが自分にあったことが不思議に思えた太陽仮面です。 さて、うちの道場ではこの日曜日まで試合に出る選手のための稽古があり、それが終わったらつぎは昇段/昇級審査(以下、審査)の稽古となってきました。 で、みけマンマさんの「戦う意味を考える、の日。」というタイトルの記事を読み、自分も試合や審査にチャレンジする意味についていろいろ考えてみたんですね。 まず結論から言っちゃうと、太陽仮面は自分が試合や審査にチャレンジする度に空手の面白さや奥深さを知ったことから、 「後輩の皆様には試合や審査にどんどんチャレンジして欲しい」 と思っています。 まずは審査。 よく、「自分に納得してから、強くなってから審査を受けたい」という意見を聞きますが、自分の明確な基準(○年後、とか○○の蹴りが蹴れるようになった、とか次の試合で入賞する、とか)があるならともかくあいまいな「納得」「強さ」でいつまでも受けないよりは、先生の許可さえあれば積極的にチャレンジして上の帯に上がっちゃった方が、早く上達すると私個人的には思っています。 理由は「審査を受けること自体」より、「審査に合格してから上の帯の重さを自覚する」、あるいは「審査で不合格や保留(一定期間の稽古状態を見て、上の帯にするかどうか先生が判断する)になって足りないことを学ぶ」ことにあるんじゃないでしょうか。 そもそも審査というのは、私が審査する側ではないので正しいかどうかは分かりませんがそれぞれの帯の基準を見てみると、 「普段どれだけ鍛練を積んでいるか、またその鍛練の成果が次の帯に上がるための基準に達しているか」 を見るのだと私は思います。 もちろん審査1ヶ月前くらいになると、実戦型や一本組手など審査の課題については少しだけ稽古をしますが、基本的には普段やっていることが審査で現れるわけですから、いくら直前に頑張っても普段稽古をしていない人は合格できるはずがないのです。 逆に言うと、普段考えながらしっかり稽古をしていたら、簡単とはいわないまでも審査に合格するのはそんなに難しいことではないと思うのですね。 (とはいえ審査を受けている最中はやっぱりものすごぉく緊張しますけどね) むしろ本当の試練となるのは、審査に合格して新しい帯を締めてから。 空手以外でも、たとえ社会で何かの「役割」がつくと人間はそれらしく振る舞おうとしますし、周りもその「役割」通りの働きを期待する。 もちろん空手でも上の帯になると、周りの見る目がかなーり厳しく見えてくるもんです。 基本稽古でも前の方に並んで、後輩たちから見られるわけですわ。 もう、一挙手一投足、ヘマはできまへん。 にもかかわらず太陽仮面なぞ、帯締める度に自分の下手さを痛感していて、特に今の茶帯になってからは度々後悔するんですわ。 「もうちょっと上手になってから、茶帯になったらよかった…」と。 でも私のようにずっと同じ帯のままではその気楽さに安住して甘え、実際に痛い目に遭わないと身につかない人間にしたら、茶帯になって恥ずかしい思いをしながら学んだこと、取り組んだことが山ほどありますんで、結果的には茶帯になってよかったとは思っています。 ましてや黒帯などとなると、多くの先輩方から下の言葉を聞きます。 「黒帯って、(立場が)重いですよ~」 それだけ、重い自覚を感じちゃう訳なのですね。 まぁ、実際仕事や家の用事と審査の日程が合わないとかで受けられない、などという事情もあるでしょうから必ず上の帯に上がれ、とはいえないまでも、審査の時期になったら気持ちだけは受ける人と同じ意識でいた方がいいと思いますし、私も審査を受けない時はいつも受けるつもりで稽古をこれからもしていきたいな、そして来年には昇段ができるようにがんばろうと思います。 次に試合…といきたいところですが、長いのでまた日を改めて、ということで勘弁してください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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