夏の立山縦断登山の思い出
昭和34年秋に大阪府警の南、大阪NHKの西に日本生命保険の3億円の寄贈をベースに完成した大阪市中央体育館は、大阪市立大医学部の小田内科の医師を中心に「体育医事相談所」が開設され、毎日マラソンに招聘されて来日したアベベらのスポーツ医学データも収集され、東京オリンピックの選手強化に貢献したことでも知られている施設である。初代の館長は、大阪学大を定年退官された「上嶋芳武」氏で、氏は、NHKの「のど自慢」に出場されて宮崎県へ行って覚え収録された民謡「正調 刈干切唄」で近畿代表として全国大会にも出場された方でる。昭和36年の夏のことである。この「体育医事相談所」の担当医師であった医師の呼びかけによる某製薬会社の治験に参加して、有峰口から入って信濃大町へ抜ける6泊7日(車中2泊)の立山連峰縦断登山に参加した。治験であるから、費用が割安であっただけでなく、大阪市立大学医学部の内科・外科医師や「体育医事相談所」の看護師の参加もあり、さらにガイドは第一次南極越冬隊に参加された、立山の名山岳ガイドの佐伯富男さんで、万全の体制のパーテイーであったので、本格的な登山が初めてのたいぞ~さんでも安心して参加できる登山であった。このとき、汗取りとしてタオルの真ん中に頭を入れる穴をあけて、不要になったタオルの端を切り取った紐を取り付けた、男性でも簡単に縫製できる、汗取りと防寒を兼ねた格安・絶妙の登山用品である。これは、今でもパジャマの下に着けて愛用している。特に夏は気軽な汗取りとして大活躍している。そういえば、トムラウシ山遭難の折にも、「タオル一枚のおかげで無事生還」された老婦人として、これと同じようなものが紹介されていたことを、ご記憶のかたもあるかと思います。登山では、可能な限り、荷物は少なく軽くが原則であり、その中での工夫が大切です。食べ物では、チョコレートが有名ですが、意外なものとして、キュウリと塩を新聞にくるんで携行したことが鮮明に記憶にあります。食べた後に残った新聞は、山小屋に残しておけば、遭難した人たちが暖をとるのに使えますからね。また、国土地理院発行の2万5千分の一の地図に登山コースを記入してマップケースに入れてその日一日のコースがケースの裏表越しに見えるようにして首からぶら下げて歩いていましたね。非常時に役立たないので、決してザックのなかに入れてはいけない、と教わりました。また、観光用の案内地図は、そのままでも"お荷物"になる、特に雨に濡れれば重くなり体力消耗に追い討ちをかけるようなものですから携行してはいけないでしょうね。必要なら、登山用の地図に自分で転記すればよいですからね。それと、もう一つ学んだ重要な事は、『登山で一番大切なことは、先頭を歩くペースメーカーは、パーテイーのなかでそのときの一番体力の弱い人を当てる』、ということです。ガイドは決してペースをガイドしたはならない、ということでしょうね。ガイドの佐伯さんは、休憩中に雪渓で冷やした缶ビールを歩きながら、「この一本が私の昼飯だ」と言って飲んでおられたことが今も強く印象に残っているのは、中年になってメタボになってしまった私にとっての警告だったのでしょうか。この年、明大山岳部が冬の薬師岳で全員遭難という冬山史上最大の遭難事故があったことも、冬山の怖さを教えてくれました。 6泊7日(車中2泊)の立山縦断したときの登山コース大阪~(車中泊)~有峰口~太郎小屋(泊)~薬師岳(標高2926m)登山~太郎小屋(泊)~三俣蓮華小屋(泊)~雲の平~三俣蓮華小屋(泊)~湯俣温泉(休憩)~信濃大町~(車中泊)~大阪当時は太郎小屋~三俣蓮華小屋間には、山小屋が無く、非常に厳しい一日コースであった。昭和36年北俣岳(2,661.2m)付近にて(1961.8.25)よろしければ『ポチーッ』とお願いします。