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高尾山のふもとから

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高尾すみれ

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緑と清流 神秘家の庵さん

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2010.05.18
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カテゴリ:歴史・歴史的人物
   サンザシ
トキワサンザシ

おおらかに、ほれぼれと念仏を唱えていた親鸞も、つねに仏を信じていられた訳ではなく、親鸞も人間、晩年になって、「浄土真宗に帰すれども、真実の心は有り難し、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし」と告白しました。
浄土真宗とは、現在のような宗派名ではなく、浄土教の本当の教えという意味でした。
その本当の教えに帰しても、真実の心ではいられないし、嘘偽りに満ちた自分には、清らかな心などさらにないと言うのです。
時には仏を信じ、素直に念仏できるが、すぐに仏を疑い、心が濁ってしまう、それが人間親鸞の姿でした。
それこそが煩悩のなせる業であり、仏が本願をたてたのは、このような煩悩に縛られてしまった親鸞は、「我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしくおぼゆるなり」と言いました。
信じられなくて疑う人間こそ、救いの対象であり、疑いながら信じ、信じながら疑う、それで良いのだと親鸞は言います。
そこから信仰の世界が開けてくるのです。自分が開くのではなく、自然に開けるのです。
偽宗教に騙されて酷い目に遭った人を、今度は真実の神仏が可哀相に思って、救いの手を差し延べると、もう宗教なんか信じないと言う。
これは直観力が鈍っているからです。
直観力が鈍っているから、偽宗教に騙され、直観力が鈍っているから、本物と偽物の区別がつかないのです。
詐欺師に騙されるのも、男(女)に騙されるのも、みんな直観力が働かないからです。






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Last updated  2010.05.19 05:52:44
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