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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(岡山・広島編)
広島城は別名「鯉城」と呼ばれ、わが広島東洋カープの名前もこの鯉城の広島城に因んで名付けられました。
戦前までは天守などの建物が残っていたのですが、原爆により全て破壊されてしまい、現在は二の丸の門と櫓などが外観復元されています。 復元された二の丸の「表御門」と「平櫓」 二の丸の「太鼓櫓」 下見板張りで統一された外観は、いかにも西国大名の城郭といった風情があります。 二の丸表御門 二の丸の曲輪 毛利輝元の時代に築造された当時の曲輪で、本丸からは独立した馬出のような縄張りになっています。 本丸には廣島護国神社があり、初詣の参拝客で賑わっていました。 宮島の厳島神社よりも初詣客が多く、広島では参拝客が最も多いそうです。 原爆によって当時の建物は全て消失してしまいましたが、石垣だけは原爆の爆風にも耐えて残っています。 爆心地に近い本丸南側の石垣。 原爆により黒く焦げた跡があります。 太平洋戦争時は本丸に中国軍管区の司令部が置かれ、地下の通信室からは世界最初の原爆投下の第一報が打電されました。 軍管区司令部跡。 司令部に広島城の詳細な地図が残っていたため、その図を元に天守も外観復元されました。 大天守 昔は小天守閣との連立天守閣でしたが、大天守閣だけが復元されています。 本丸の石垣は野面積みに近い打込み接ぎで積まれ、いかにも西日本の城郭といった印象でした。 広島城は1591年に毛利輝元によって築城されました。 毛利輝元は豊臣秀吉の聚楽第や大阪城を参考にし、太田川河口のデルタ地帯を城下町に選んでいます。 関ヶ原の戦い後、毛利輝元は長門・周防2国に大幅減封され、萩城(長門)に移りましたが、毛利輝元に代わって入城したのが福島正則でした。 福島正則と言えば、広島城を無断改修して改易となった事件が有名です。 福島正則は洪水で破損した城郭を勝手に修復したとの理由から、1619年に幕府によって領地を没収されてしまいました。 その福島正則が修復した石垣が現在も本丸の隅に残っています。 本丸北東の石垣。 写真右側と左側では明らかに石垣の積み方が違っています。 右側は毛利輝元が築いた石垣で、左側が福島正則が築いた石垣です。 福島正則が築いた方はあまりにきれいな打込み接ぎで、さすがにばれると思うのですが… それでも外堀や外郭を整備を進め、広島城を完成させたのは福島正則です。 当時は、広島市民球場の前を通る相生通りに外堀がありましたが、現在の広島市の中心部も城内にあったことになります。 関連の記事 西国海道~広島宿(その1)→こちら 西国海道~広島宿(その1)→こちら (財)日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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