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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(東京編)
西武池袋線と新宿線の駅名にもある江古田と沼袋ですが、この辺り一帯は1477年に太田道灌と豊嶋泰経が激突した戦場でもありました。
現在は妙正寺川沿いに江古田公園に、古戦場の碑が建っています。 戦国時代の始まりは1467年に京都で起こった応仁の乱とされていますが、すでに関東では1455年に起こった享徳の乱により、戦国時代へと突入しつつありました。 鎌倉公方(後に古河公方)足利氏VS室町幕府足利将軍・関東管領上杉氏の対立の構図が出来上がり、以後は関東の諸将を巻き込みながら、約30年にわたって戦乱が続いていました。 (元々は鎌倉公方の足利持氏が元凶ですが、さらには足利成氏が引っ掻き回して、とてもややこしい構図を作ってくれました) その戦乱の中、1476年に関東管領上杉氏の家臣である長尾景春が、古河公方足利成氏と結んで鉢山城で反旗を翻し、世に言う「長尾景春の乱」が勃発しました。 長尾景春によって(山内)上杉顕定と(扇谷)上杉定正の陣が急襲され、上杉顕定と上杉定正は敗走したのですが、長尾景春の乱の鎮圧に乗り出したのが、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌です。 一方、長尾景春の挙兵に呼応して、関東の諸将も次々と挙兵しましたが、その中の1人に石神井城に本拠を置く豊嶋泰経がいました。 豊嶋泰経は石神井城と練馬城で挙兵し、太田道灌の拠点である江戸城と河越城を結ぶ防衛ラインの分断にかかりました。 太田道灌も豊嶋泰経の石神井城を攻撃するために進軍し、両者が激突したのが江古田・沼袋原でした。 結果は豊嶋軍の敗退に終わり、さらには豊島氏の石神井城も太田道灌によって落城しています。 妙正寺川から古戦場の方を振り返ると、太田道灌の「足軽軍法」もはるか遠い出来事のように思えます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/11 01:40:18 PM
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