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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(東京編)
世田谷城は目黒川の支流である烏山川が蛇行する台地上にあり、その城郭は豪徳寺の境内までも含む大規模なものだったようです。
豪徳寺の南側の住宅地内に世田谷城址公園があり、土塁や空堀の跡が保存されていました。 空堀跡 石垣は後世になって積まれたものだと思います。 公園脇には土塁の跡も残っていました。 縄張り図を見ると、城址公園の方は詰城として機能していたようで、本丸は豪徳寺の境内にあり、城主の居館が置かれていたようです。 豪徳寺の方へ行ってみると、境内の脇にわずかに土塁が残っていました。 世田谷城の歴史は古く、1366年に足利氏の一族である吉良治家によって築城されたと言われています。 吉良氏は「世田谷吉良殿」とも呼ばれ、足利氏一族として相応の力を持っていたようです。 15世紀後半の関東の戦乱においては、太田道灌と同盟関係を結んで、武蔵国の中心勢力でもありました。 16世紀後半の戦国時代においては、吉良頼康が小田原北条氏と縁戚関係を結び、北条氏の支配下にありました。 しかしながら1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの時、世田谷城も秀吉方に攻められて廃城となっています。 江戸名所図会を見ると、豪徳寺の横に世田谷城跡が描かれていますが、すでに江戸時代には城郭が失われていたようです。 関連の記事 豪徳寺→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/01/19 10:29:07 PM
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