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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(福岡編)
筑前の小京都とも呼ばれる秋月の城下町は、福岡県朝倉市の市街地から離れた山あいの中にあります。
清流沿いの細い道が旧家の立ち並ぶ広い道へと変わり、突如として城下町が現れた感じでした。 江戸時代初期の1623年、福岡藩の支藩である秋月藩が5万石で新設され、黒田長政の三男である黒田長興が初代藩主となりました。 そしてその秋月藩の藩庁となったのが秋月城です。 秋月城の1/100模型 秋月の城下町もさることながら、秋月城の方も当時の城郭そのままに、石垣や水堀などの遺構が残っていました。 大手口に架かる橋は「瓦橋」と呼ばれ、滑り止めのために通行部分には瓦が埋め込まれていることからこの呼び名があります。 橋の向こうには大手虎口があったと思われますが、後から石垣を積んで閉ざされたようです。 秋月城の石垣の向こう側に回ると、秋月中学校の敷地が広がっていました。 城郭というよりも陣屋のような感じだったのかも知れません。 秋月城正面の通りを進むと、秋月郷土館の長屋門がありました。 秋月郷土館の門を入ると、敷地内に戸波家の屋敷が保存されていました。 歴史資料館には甲冑や書状など、黒田家にまつわる数々の品が展示されていました。 秋月美術館にはなぜかルノアール、シャガール、横山大観などが普通に展示してあり、秋月出身の土岐勝人氏によって寄贈されたものだそうです。 稽古館の前の通りは杉の馬場とも呼ばれ、春になると桜並木となるそうです。 紅葉の季節にはまだ早く、桜の季節には程遠く、しかも悪天候の中、それでも秋月の城下町を思い思いに散策する人が多かったのが印象的でした。 秋月城の歴史は古く、鎌倉時代の1203年に原田種勝が鎌倉幕府将軍源頼家より秋月荘を拝領して秋月氏を名乗ったことに始まります。 戦国時代になると第16代の秋月種実が勢力を伸ばし、大内氏や毛利氏と手を結んで豊後の大友氏と対立していました。 その頃の秋月氏の本拠地は秋月城の背後にある古処山城で、秋月城は古処山城の支城としての位置付けでした。 (古処山城も探しに行ってみたのですが、あまりに視界が悪いので断念しました) 秋月城の隣にある垂裕神社の境内には秋月城の大手門であった「黒門」が現存していますが、この門は元々古処山城の搦め手門だったそうです。 豊臣秀吉が九州征伐に乗り出してくると、秋月氏は島津氏について豊臣秀吉に対抗しました。 筑前の雄者であった秋月氏でしたが、1587年に豊臣秀吉の前に敗れ、日向へ移封となっています。 関ヶ原の戦い後は黒田長政が筑前52万石で入封し、黒田長政の遺言によって三男である黒田長興が秋月藩を立播しました。 秋月藩主は黒田氏のまま明治維新を迎えており、途中で移封や改易のなかった藩です。 秋月は久留米城の帰りにたまたま立ち寄った場所でした。 秋月と言えば明治に入ってからの士族の反乱である秋月党の乱で知られていますが、「あの秋月か…」くらいの感じだったのですが、優雅な城下町が残っているとは思いませんでした お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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