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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(福岡編)
博多湾の北側には「海の中道」と呼ばれる全長8kmほどの砂州があり、玄界灘の日本海と博多湾を隔てる防波堤のようになっています。
その海の中道の先端にあるのが志賀島、日本史の最初の方で「何となく聞いたかも…」という方も多いのではないでしょうか。 志賀島は海の中道と陸続きになっており、玄界灘と博多湾を隔てるように片側一車線の道路が続いています。 まるで海の上を走っているような感じですが、右側の玄界灘の方は荒波が打ち寄せ、左側の博多湾の方は割りと穏やかな海面が広がっており、左右で海の様相が違うのも不思議な感じです。 (この冬の荒海に挑むサーファー達には脱帽です) ところで志賀島と言えば、「漢委奴国王」の金印が発見された場所として知られています。 その金印が発見された場所は、「金印公園」として整備されていました。 (金印の向きが微妙に傾いていたのですが、どこを指しているのでしょうか) 歴史的に奇跡と思える発掘はいくつかあると思うのですが、志賀島の金印も奇跡としか言いようがありません。 (他にはアマチュア歴史家相沢忠洋の岩宿遺跡からの石器発掘や、文京区弥生町の土器発掘など) 「漢委奴国王」の金印が発見されたのは江戸時代の1784年で、発掘したのは百姓の甚兵衛という人です。 もちろん当時の役所に届けたのでしょうが、このどこかの課程で歴史を知る人がいなかったら、現在に残ることはなかったかも知れません。 「建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国王、奉貢朝貢す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝賜うに印綬を以ってす。安帝の永初元年(西暦107年)、倭国王帥升ら、生口(奴隷)百六十人を献じ、請見を願う」 まさに後漢書東夷伝を裏付ける発掘でした。 (それにしても「東夷」や「奴」の呼称など、まさに「中華思想」だったと思われます。当て字だとしても「邪馬台国」を始め、当時の日本の国はすべて蔑称です) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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