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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(福岡編)
歴史上「~の乱」と呼ばれる出来事は数多くありますが、その舞台に九州が多いように思うのは、気のせいでしょうか。
523年の「筑紫国造磐井の乱」や720年の「隼人の反乱」などヤマト王権に対するものから、時代は下って徳川幕府下での「島原の乱」、さらには明治政府に変わってからも「西南の役」や「秋月党の乱」など、ざっと思いついただけでも結構あります。 関ケ原の戦いの最中に黒田官兵衛(如水)が中津城でとった行動も入るでしょうか。 後醍醐天皇の建武政権に反旗を翻し、京都を追われた足利尊氏が再起したのもやはり九州でした。 太平記の時代の1336年、菊池武敏率いる後醍醐天皇方との「多々良浜の戦い」が、その幕開けとなりました。 足利尊氏軍と菊池武敏軍は、福岡市内の北部を流れる多々良川の両岸に布陣しました。 「多々良浜」の名前にあるように、当時は海岸線も近く、干潟が広がっていたようです。 ちなみに1930(昭和5)年から1934(昭和9)年まで、多々良川には水上機専用の名島飛行場があって、リンドバーグも降り立ったそうです。 多々良川の右岸に布陣した足利尊氏でしたが、その数は宗像大社の宗像氏の援軍を合わせても約2,000ほどでした。 一方の後醍醐天皇方は菊池武敏を始め、筑前の秋月氏、筑後の蒲池氏、肥後の阿蘇氏など、九州の後醍醐天皇方の諸将を集め、その数は20,000人と言われています。 多々良川の右岸には「陣の越」と呼ばれる小高い丘があり、ここに足利尊氏の本陣があったとされています。 陣の越の方向 陣の越まで行って見ましたが、特に何もありませんでした。 10倍の敵を相手に大劣勢の足利尊氏でしたが、菊池軍側に砂塵を吹き付ける風が吹いたり、菊池軍から足利軍への寝返りが出たりして、結果は足利尊氏の勝利に終わっています。 その後の足利尊氏は九州の諸将を味方につけ、水陸両面から京都を目指して東上していきました。 そして舞台は太平記のクライマックスである「湊川の戦い」へと移って行きました。 【送料無料】私本太平記(7) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/07 02:14:30 PM
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