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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(福岡編)
福岡県は3つの海に面しており、玄界灘の日本海、周防灘の瀬戸内海、そして有明海です。
その有明海に面し、筑後川を挟んで佐賀県との県境近くにある柳川は、水郷の町としても知られています。 柳川城もその掘割を要害とした城下町が築かれていたようです。 柳川城に行く途中、駐車場を探しているうちに三の丸の住宅地に迷い込んでしまいました。 掘割跡や曲尺手が複雑に入り組んでおり、何度も曲がっては同じ場所に来て、また同じ人に会うことの繰り返しでした。 まるで東海道岡崎宿の「岡崎27曲がり」を彷彿とさせる城下でしたが、城下町を整備した人の名前を聞くと、それも納得かも知れません。 現在の柳川城の遺構としては、柳川中学校の敷地内に天守台の跡が残るのみで、城跡としては寂しい限りでした。 天守台遠景 城跡碑 天守台には明治まで天守が建っていたようですが、明治5年の火災で天守や櫓・門などを消失してしまいました。 天守の古写真 天守の絵図 大手口の内堀には土橋が架けられていますが、場所は特定できませんでした。 石垣石も海岸堤防の建設に使われてしまい、現在の城郭にはわずかに石垣が残るのみでした。 総石垣造りの城郭も、掻き揚げの戦国城郭みたいになっていました。 柳川中学校の周囲には掘割があり、わずかに内堀の名残を留めています。 柳川城は永禄年間(1558年~1569年)に蒲池鑑盛(あきもり)によって築城されました。 ちなみに蒲池鑑盛の子孫に松田聖子(旧姓蒲池去子)がいます。 蒲池氏の時代の戦国城郭も水堀で囲まれており、扉の開閉によって水量が調節できるようになっていたそうです。 1580年の龍造寺氏による数ヶ月に及ぶ攻撃や、1584年の大友氏にによる攻撃にも耐え抜き、当時「柳川三年 肥後三日 肥前久留米は朝茶の子」と歌われたそうです。 (城を落とすのに、柳川城は3年かかるという意味ですが、久留米城もなかなか堅固だとは思います) 豊臣政権下では立花宗茂が九州平定の功で柳川城に入城しましたが、関ケ原の戦いで西軍についたため、入城から13年で移封となりました。 逆に関ケ原の戦いの功で岡崎城から田中吉政が32万石で入城し、田中吉政は石垣を改修して、天守を築いています。 その石垣の高さは約8m、天守は5層で高さ35mもあったようです。 田中氏には跡継ぎがなく断絶したため、再び立花宗茂が12万石で入城し、以後代々立花氏が柳川藩の藩主を勤めて明治維新を迎えています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/07 02:13:50 PM
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