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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(岡山・広島編)
古代より「潮待ち」の港として万葉集にも詠われ、また北朝と南朝の戦いである「鞆合戦」や、朝鮮通信使の寄港地として、瀬戸内海の要衝となっていたのが鞆の浦です。
その鞆の浦を見下ろす丘陵上に鞆城があったとされ、現在は鞆の浦歴史民俗資料館の一帯に城郭があったと推定されています。 鞆の浦歴史民俗資料館 歴史民俗資料館の周囲は切岸状になっており、城郭の名残はありました。 鞆城は福島正則によって築城された近世城郭でしたが、一国一城令より前に破却されたため、縄張りには不明な点が多いようです。 1986(昭和61)年の発掘調査によって石垣の遺構が確認され、歴史民俗資料館建設にあたって、南西部の石垣が復元されています。 現代になって積まれた石垣と混在していますが、隅石には矢穴が残っていたり、刻印が記されたりしており、当時の石垣が残っていました。 本丸があったとされる頂上部に行くと、眼下に鞆の浦の港と瀬戸内海を一望することができました。 本丸跡 鞆の浦の港 鞆の浦には元々大可島城が、沖合いの島に築かれ、鞆要害などと呼ばれていました。 大可島城のあった場所(鞆城本丸より) 近世城郭としての鞆城は、1600年の関ケ原の戦い後に安芸・備後に移封となった福島正則によって修築されました。 1607年の朝鮮通信使の日記には、「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが、未完成である」との記述があります。 鞆城は1615年の一国一城令によって廃城になったと言われていますが、鞆城の存在を知った徳川家康が怒ったため、一国一城令より前に破却されたとも言われています。 福島正則については、何かと幕府から目を付けられていたのかも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 04:14:50 AM
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