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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(岡山・広島編)
鞆の浦は、瀬戸内海の豊後水道と紀伊水道の中間点にあたり、満潮と干潮による潮流の分かれ目でもあります。
まだ航法が発達していない時代、この干満の差による潮流に乗って航行していたため、鞆の浦は古来より「潮待ち」の港とされてきました。 航法の発達で潮待ちの必要性が薄れ、現在の鞆の浦の港は小さな漁港といった風情ですが、港の周りにはかつての港湾設備や廻船問屋の土蔵などが残っていました。 かつての「鞆の津」 江戸時代から残る常夜灯 船着場に残る雁木 鞆の浦は万葉集にもその名が登場し、江戸時代には朝鮮通信使の寄港地として栄えた歴史のある港町です。 現在も随所に旧家の町並が残っており、かつての港町の名残がありました。 歴史民俗資料館(鞆城跡)前に残る商家 江戸時代末期に建築されたもので、明治以降は「鞆製網合資会社」の社屋として使われていました。 太田家住宅(国指定重要文化財) 1863年「八月十八日の政変」で三条実美などの公武合体派の公卿が京都を追われ、長州へ都落ちをした「七卿落ち」、この時に七卿が立ち寄った場所です。 鞆の浦の名産である「保命酒」の社屋として当時は使われており、三条実美は保命酒を竹の葉に喩えて和歌を残しています。 「世にならす 鞆の港の竹の葉を かくて嘗むるも 珍しの世や」 まさか自分が鞆の浦に立ち寄るとは・・・といった感慨でしょうか。 同じ幕末期には坂本竜馬も鞆の浦に立ち寄っていますが、こちらも海難事故でたまたま立ち寄ったものでした。 1867年に海援隊が「いろは丸」を操船して大阪から長崎に向かう途中、笠岡諸島(岡山)沖の瀬戸内海で紀州藩の「明光丸」と衝突しました。 坂本竜馬以下の海援隊は明光丸に乗り移って、修理のためにいろは丸を鞆の浦まで曳航していきましたが、途中でいろは丸は鞆の浦沖で沈没しています。 坂本竜馬は鞆の浦に滞在して紀州藩との賠償交渉に臨みましたが、鞆の浦には4日間滞在しただけで、交渉の舞台を長崎へと移していきました。 坂本竜馬が滞在した「枡屋」 現在も営業中です 鞆の浦では「いろは丸」事件が大々的に取り上げられており、4日間の滞在にもかかわらず、坂本竜馬一色といった感じでした。 同じ大河ドラマでも、現在放映中の「平清盛」にはほとんど触れられていません。 それでも鞆の浦を訪れて感じたのですが、決して観光主義一色に走らず、自分たちの生活も守っている印象があります。 目立たない狭い路地裏にひっそりと掲げられた「小魚料理」の赤提灯に、地元の人たちが守っているものを見たような気がします。 関連の記事 鞆城→こちら 瀬戸内海国立公園「鞆の浦」→こちら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/04/05 02:22:29 PM
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