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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(埼玉編)
戦国時代の関東の勢力図を、まさに一晩であっさり塗り替えてしまった場所が川越でした。
桶狭間の戦い・厳島の戦いと並んで「三大奇襲戦」に数えられるのが「河越夜戦」、北条氏康が10倍もの敵を相手に、乾坤一擲の大勝利を収めた舞台でもあります。 現在は「小江戸」として江戸時代の町並みが残る川越にあっては、戦国時代のそんな面影は残っておらず、遠い過去のような気もしてきます。 それでも蔵造り通りを北へ300mほど行った場所にある東明寺には、戦国時代の河越夜戦を伝える碑がひっそりと建っていました。 東明寺口は激戦地の1つだったようです。 東明寺 戦国時代真っ最中の1546年、(扇谷)上杉朝定・(山内)上杉憲政・(古河公方)足利晴氏は、関東中の諸将を集めて大連合軍を結成、約8万の大軍で河越城を包囲しました。 一方河越城の守将は「地黄八幡」の北条綱成でしたが、さすがの北条綱成でも城兵3千人では河越城陥落も目に見えている状況です。 小田原の北条氏康は今川義元との戦いの最中でしたが、北条氏康は今川義元に駿河の一部領土を明け渡して和平し、河越城の救援に兵力を集中することを決断しました。 それでもその兵力は約8千と、10倍の連合軍相手では多勢に無勢といったところです。 河越に到着した北条氏康は、古河公方足利晴氏に対し「城を引き渡すから、城兵の命は保証して欲しい」と、降伏ともとれる申し入れを行いました。 さらに北条氏康軍と(山内)上杉憲政軍の間で戦闘が始まると、北条軍はすぐに逃げるように退却して行きました。 これは北条氏康の心理作戦だったのですが、連合軍は「北条氏康が戦意を失っている」と思い込み、圧倒的に優勢である安心感もあって、夜になると軍装を解いてすっかりくつろいでいました。 その様子を見た北条氏康は、8千の兵を4隊に分け、その4隊が代わる代わる攻め込む戦法で、(山内)上杉憲政の本陣に夜陰に紛れて急襲を仕掛けました。 さらにはそれを合図に河越城からも北条綱成軍が討って出て、(扇谷)上杉朝定と(古河公方)足利晴氏の本陣に襲い掛かりました。 不意を突かれた連合軍は大混乱に陥った上に次々と敗走し、この戦いで(扇谷)上杉朝定は討死、(山内)上杉憲政も平井城へと逃げ帰っています。 この「河越夜戦」は、北条氏康の作戦が光った戦いでもありました。 駿河の今川義元に領土を明け渡してまで和睦し、すぐに河越城救援に向うあたりは並々ならぬ才知を感じます。 そんな急な出撃にも関わらず、北条氏康は細かなルールを指示して周知徹底させていました。 1.夜襲を想定して、識別ができるように全員に白い羽織を着用させた。 2.敵味方の識別のため、合言葉を決めていた 3.動きやすいように、旗指物や鎧などの重装備を禁じた。 4.「敵を討ち取っても、首級はとるな」と厳命した。 特に4番目は当時としては常識外れの指示だと思われます。 恩賞のためには討ち取った敵の首級を持ち歩く必要があったのですが、北条氏康は戦いの邪魔になるので、それすらも禁じていました。 さらには急襲に成功しても深追いはせず、早めに引き揚げ命令を出して、敵の反撃に備える念の入れようです。 やはり一番的中したのは戦意を喪失していると見せかけた心理作戦で、北条氏康は最初から連合軍を油断させて急襲するつもりだったのかも知れません。 連合軍はこの心理戦に見事に引っ掛かったことになりますが、連合軍にとっては「やはり油断は大敵でござった」などでは済まされないほどの大敗北でした。 ところで江戸時代になって書かれた「南総里見八犬伝」では、最後に八犬士が集結して里見氏と共に関東大連合軍と戦う「関東大戦」のシーンがあります。 作者の曲亭馬琴がモデルにしたのは、明らかにこの河越夜戦だと思われます。 戦国合戦「超ビジュアル」地図 戦国合戦「超ビジュアル」地図 名城と合戦の日本史 小和田哲男著 名城と合戦の日本史 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 05:05:48 AM
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