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テーマ:城跡めぐり(1254)
カテゴリ:城跡と史跡(埼玉編)
江戸の大手が小田原ならば、搦め手は川越と言われたほど、江戸防衛の重要拠点とされていたのが川越でした。
関東の戦国時代においてもその重要性は同じで、利根川を挟んで勢力がほぼ二分する中、利根川より東の防衛ラインを担っていたのが河越城でした。 現在の川越の町並みには江戸時代の風情が残っているものの、城郭の方は江戸時代の遺構さえもほとんど残っていませんでした。 川越市役所前にある大手門跡の碑 江戸時代の近世城郭すらも市街地に変わってしまった現在、ましてや戦国時代の河越城となると、想像するしかないような感じです。 それでも川越市役所前にある像に、かつての「河越」とその栄光を見たように思いました。 やっぱりこの人、我らが太田道灌です。 徳川家康以前の江戸城を築城したことで知られる太田道灌ですが、その太田道灌が江戸城とほぼ同時期に築城したのが河越城でした。 むしろ河越城の築城の方が先で、太田道灌としては河越城の防衛強化のために江戸城を築いたとも考えられます。 かつての河越城の縄張り図 太田道灌の中世城郭ではなく、江戸時代の近世城郭の縄張りです。 「蔵造り通り」や「大正浪漫通り」にかつての町並みが残る中、河越城の方は「何か残っていればラッキー」くらいの感じでした。 その河越城の遺構として、二ノ丸虎口付近の「中ノ門堀」の跡が残っていました。 幾重にも巡らされた堀の中で、唯一残るのがこの堀跡です。 河越城には「七不思議」があるようで、その1つが「霧吹きの井戸」です。 現在は市立美術館の敷地となった二ノ丸跡に、その井戸がありました。 普段は蓋をしてあるのですが、いざ敵が攻めてきた時に井戸の蓋を開けると、中から霧が立ちこめて城を隠してしまったとされるのが、この霧吹きの井戸です。 この出来事から、河越城は別名「霧隠城」とも呼ばれています。 本丸は市立美術館から道を挟んだ隣の敷地にあり、かつての虎口跡には碑が建っていました。 本丸 本丸には本丸御殿が現存しており、河越城では唯一の現存建築物です。 江戸時代末期の1848年に建てられた御殿です。 本丸御殿の隣は三芳野神社の敷地となっていますが、かつての天神曲輪があった場所です。 境内の盛土が土塁跡に見えて仕方がなかったのですが、神社の盛土にしては不自然な感じで、かつての枡形の跡のようにも思えました。 河越城は太田道灌の命名によって「初雁城」とも呼ばれていましたが、これも川越城七不思議の1つ、三芳野神社の「初雁の杉」に由来しています。 太田道灌の時代、毎年初雁が三芳野神社にやってきて、毎年境内の杉の木の上で3周して3度鳴いて飛び去っていたそうです。 現在も本丸の隣にある三芳野神社境内には、その初雁の杉の碑が建っています。 戦国時代城郭の名残でもありますが、現在の初雁の杉は三代目とのことです。 太田道灌が河越城を築城したは1457年のことで、まだ小田原北条氏が関東に進出するよりずっと前の話でした。 当時は鎌倉公方足利氏VS関東管領上杉氏の対立に端を発して、さらには上杉氏も山内上杉氏と扇谷上杉氏が対立したりと、まさに三つ巴の混沌とした状況でした。 扇谷上杉氏の家宰であったのが太田道灌で、後に古河公方を名乗る足利成氏への備えとして築いたのが河越城と江戸城でした。 そんな古河公方足利氏、山内上杉氏、扇谷上杉氏の三つ巴の争いの中、太田道灌亡き後で関東に進出してきたのが、小田原を本拠地とする北条氏でした。 1525年には北条氏綱が川越城を奪取し、娘婿の「地黄八幡」北条綱成が入城しました。 そして1546年の「河越夜戦」によって、北条氏康が歴史的な大勝利を収めています。 しかしながら1590年の豊臣秀吉による小田原城で川越城も落城し、以後は関東に移封されてきた徳川氏の拠点となりました。 北条氏が滅亡した後に徳川家康が関東に入封してきましたが、この時江戸城の他に本拠地の候補を挙げるとすれば、川越城や岩槻城があったのではないでしょうか。 (当時は城郭の大きさでは、大差はなかったと思います) 何らかの理由で江戸城が本拠とならなかったら、川越が日本の首都になっていた可能性は十分にあったと思います。 (財)日本城郭協会「日本100名城」 関東7名城 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022/02/02 05:04:57 AM
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