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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:名所江戸百景
少し前にNHKの「歴史秘話ヒストリア」で吉原のことを採り上げていましたが、単なる遊郭ではなく、文化や教養の中心地でもあったようです。
吉原で馴染みになるためには、段階を経て何度も足を運ぶ必要があり、むしろ客の方が選別されていたとのことでした。 また、吉原では武士や町人の身分は関係なく、逆に武士などは蔑まれていたと聞きます。 むしろ遊女の身分の方が高かったようで、中でも最も位の高かったのが花魁でした。 最初に幕府公認の遊郭が出来たのは1617年のことで、場所は現在の日本橋人形町にあり、葭が生い茂っていたことから「葭原」と呼ばれていましたが、後に縁起のいい「吉原」に改名されました。 (吉原の名前は東海道吉原宿に由来するとの説もあります) 明暦の大火後の1656年に浅草千束村に移転され、日本橋の「元吉原」に対し「新吉原」と呼ばれるようになりました。 (一般的に「吉原」と言えば移転した後の「新吉原」の方です) 現在も交差点には「吉原大門」の地名が残り、交差点脇には「見返り柳」の跡がありました。 京都の島原遊郭の入口にあった柳を模して、山谷堀の土手には柳が植えられていたようです。 見返り柳の碑 この辺りで遊郭を振り返ったことから「見返り柳」と名付けられ、 「きぬぎぬの うしろ髪ひく 柳かな 見返れば意見か柳顔をうち」 の川柳もあるそうです。 かつての新吉原の周囲は堀で囲まれており、山谷堀と日本堤に入口があったようですが、現在となってはその面影もありませんでした。 かつては遊郭のあった千束4丁目付近 現在も柳並木がありました。 そちら方面のお店も並んでいました。 歌川広重「名所江戸百景 廓中東雲」 昭和31年になって吉原遊郭の歴史は閉じましたが、吉原弁財天には吉原を惜しんで建てられた「吉原名残碑」があって、当時を偲んでいました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013/07/15 11:59:27 AM
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