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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:名所江戸百景
千駄木に用事があったのですが、せっかくなので西日暮里で降りてみました。
道灌山にある西日暮里公園 道灌山の地名の由来には諸説あって、この付近の土豪であった関道閑が屋敷を構えたとか、太田道灌が出城を造ったとも言われています。 かつての道灌山には「舟繋松」があって、荒川を行く舟人にとって、太田道灌の砦に荷物を運ぶための目印となっていたそうです。 西日暮里公園 江戸時代の道灌山は、大半が秋田藩主佐竹氏の抱屋敷だったそうです。 元々この辺りは新堀と呼ばれていましたが、日の暮れるのも忘れるほどの景色から、江戸時代になって「新堀」に「日暮里」の文字が当てられました。 歌川広重「名所江戸百景 日暮里諏訪の台」 かつては荒川の流れや筑波山、日光の山並みまで見渡せたようです。 佐竹氏も筑波山を眺めながら、元々の本拠地であった常陸を思っていたでしょうか。 現在の道灌山からの眺め 西日暮里公園から谷中の方に向かって行くと、高台の上を諏訪台通りの一本道が通っています。 太平洋美術商会 明治35年に創設された太平洋画会に始まり、昭和4年に太平洋美術学校となって、高村智恵子もここで学んでいました。 諏訪台通り沿いには、その高村智恵子の夫である高村光太郎が卒業した荒川区立第一日暮里小学校があります。 校門前にある高村光太郎直筆「正直親切」の碑 諏訪台通りを谷中の方に向かって行った先にあるのが諏方(すわ)神社、長野の諏訪大社と違うのは、なぜか「訪」にゴンベンがありません 諏方神社鳥居脇には立派な山門があり、案内板を読むと諏方神社の別当寺である浄光寺とのことでした。 雪景色が素晴らしいことから、「雪見寺」の呼び名があります。 山門が閉まっていたので中には入れませんでしたが、境内には江戸六地蔵の1つである地蔵菩薩や、8代将軍徳川吉宗が鷹狩りの時に立ち寄った時の「将軍腰掛の石」があるそうです。 諏方神社の鳥居をくぐって境内に入った先には倉庫があり、源為朝の人形を模した山車が納めてあるそうです。 諏方神社の祭神は長野の諏訪大社(上諏訪社)と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)で、1205年に石神井城城主であった豊島泰経によって造営されたと伝えられています。 江戸時代に入ってからも、谷中・日暮里の総鎮守として信仰されてきました。 歌川広重の名所江戸百景にもあるように、諏訪台は景勝地として知られ、「土器投げ」なども行われたそうです。 現在の諏訪台からの眺め 諏訪台通りの沿道には寺院が多く、その1つ養福院寺に立ち寄ってみました。 山門をくぐると仁王門があり、宝永年間(1704~1711)の建築と伝えられています。 他の江戸時代の建築物は戦火で焼失したそうで、現存する貴重な遺構になります。 時代は下って幕末、上野戦争で敗走した彰義隊をかくまったとして、諏訪台にある経王寺が新政府軍に包囲され、銃撃戦となりました。 経王寺 現在も経王寺の山門には当時の銃痕が残っており、こちらも貴重な遺構かも知れません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013/08/20 04:42:26 PM
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