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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(東京編)
城跡の場所を特定できていながら、本丸へのアプローチに失敗した城郭はいくつかあります。
理由もいくつかあるのですが、「足が痛い」という想定外の理由で撤退したのが、あきる野市にある戸倉城でした。 前回(2014年9月)に陣馬山から奥高尾縦走路の尾根をたどった時、最後の目的地にしていたのが戸倉城跡のある戸倉城山でした。 今回は反対側の日の出山から秋川渓谷を経て、戸倉城山を目指すことにしました。 武蔵五日市方面から見た戸倉城山の遠景 戸倉城は戸倉城山の山頂部にあった戦国城郭で、二つのピークにそれぞれ曲輪が配されていたようです。 戸倉城山山頂部の復元模型(あきる野市五日市郷土館) 現在の戸倉城山 秋川渓谷瀬音の湯のある十里木からは、戸倉城山に至る登山道の一つがあります。 (登山道入口は樹林帯に覆われて、わかりづらい位置にあります) 西側の斜面を登って行くと、荷田子峠との分岐点に差し掛かりました 前回のアプローチが成功していれば、奥高尾縦走路からこの道を来ていたと思います。 西側ピークを目指して行くと、途中の斜面を送電線が横切っていました。 曲輪跡に鉄塔が建てられているのは他の城跡で見たことがありますが、この鉄塔は斜面に建てられており、曲輪跡のような削平地も見当たりませんでした。 戸倉城山の東西二つのピークのうち、西側には物見台が置かれていたようです。 鞍部には堀切のような跡も見られます。 東側ピークの途中にはベンチの置かれた削平地があって、二の丸の曲輪の跡だと思われます 道標の立つ場所は堀切跡だと思われます 二の丸の周囲には切岸の跡が残っており、枡形虎口のような跡も見受けられました。 二の丸跡 二の丸(本丸のある上から見たところ) 本丸の周囲には野面積みの石積があったのですが、後世になって積まれたものだと思います。 石積みの脇を抜けた先は削平地となり、本丸跡に着きました。 本丸のあるピークは、戸倉三山の一つ、戸倉城山の山頂でもあります。 戸倉城山山頂碑(標高434m) 本丸から眼下を見ると、五日市の市街地の眺望が開けていました。 本丸にある縄張り図 戸倉城の大手口は北側にあったようで、戸倉へ降りる途中には城郭の遺構がいくつか見られました。 竪堀跡(藪に覆われてわかりづらいですが) 腰曲輪の跡 虎口跡(?) 斜面を下って行くと神明社の裏手に出ましたが、城郭と関係があるのかは不明です。 平時の居館跡のような雰囲気です。 15世紀の秋川・南多摩一帯には、「武州南一揆」と呼ばれる在郷の武士団があり、戸倉城はその主要構成員であった小宮氏の居城だとされています。 1416年の上杉禅秀の乱では鎌倉公方足利持氏に味方し、その恩賞として5年間税を免除されたようで、その書状が五日市郷土館に展示されていました。 戦国時代より前から秋川一帯に勢力を持っていたことがうかがえます 戦国時代になって北条氏が勢力を伸ばしてくると、大石定久が北条氏照に滝山城を譲った後、戸倉城を隠居の居城としていました。 北条氏支配下の戸倉城は八王子城の支城のような存在だったらしく、甲斐の武田信玄に備えるべく、檜原城とも連携していたようです。 その八王子城が1590年の豊臣秀吉の小田原の役によって落城すると、戸倉城も廃城となっています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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