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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(東京編)
JR武蔵五日市駅の東側、三内神社のある山稜が阿伎留(あきる)城跡だとされています。
JR五日市線の踏切の向こう側に三内神社の参道があります。 事前に得た情報では、ここに城郭があったかどうか懐疑的だったのですが、実際に訪れてみるとどうなのでしょうか。 三内神社の鳥居 城跡として見るならば、鳥居脇の削平地は山麓の居館跡だとも思われます。 三内神社の縁起らしきことも書かれていたのですが、阿伎留城については触れられていませんでした。 途中にある小さな祠にも解説板が建っていて、読んでみると御嶽神社を分祀したものだそうです。 三内神社の拝殿へと登る途中、「拝殿に至る二択の迷い道」と書かれた碑があり、道が左右に分岐していました。 左は普通の山道で、右は石の階段となっています。 ここは右に曲がるのが登城のセオリーなので、右の階段を登って行きました。 石段を登りながら、これも最近気づいた登城のセオリーで、後ろを振り返ってみました。 視線を変えて上から見てみると、横矢の掛かった枡形虎口にも見えます。 さらに途中で後ろを振り返ってみると、わずかに削平地が見えましたが、曲輪の跡かどうかはわかりませんでした。 「二択の迷い道」とは言うものの、ほどなくして三内神社の拝殿に到着しました。 三内神社拝殿 三内神社が阿伎留城跡だとするならば、拝殿のある削平地は曲輪だったと考えられます。 それにしてもシンプルすぎる縄張りで、曲輪の位置も稜線の途中にあったりと、なんだか違和感がありました。 拝殿を参拝した後で周囲を見渡してみると、拝殿のさらに上に祠が見えたので、行ってみることにしました。 「金毘羅」と書かれていたように記憶していますが、その先に尾根道が続いているので、たどってみることにしました。 稜線をたどる途中、南側の五日市方面の眺望が開けており、秋川の流域と戸倉城のある城山(矢印)を眺めることができました。 尾根道の途中には、竪堀跡のような溝や曲輪跡のような削平地が見られたのですが、城郭の遺構かどうかまではわかりませんでした。 竪堀跡? 曲輪跡? やがてピークに続く石段(明らかに後世になって造られたもの)が現れ、三内神社の本社に到着しました。 城跡ならばここが本丸になります。 本丸跡に神社が建っている城跡は、これまでにも数多く見て来ました。 いつもながら社殿の裏側に回るのはタブーなのでしょうが、城跡ハンターとしては社殿の裏側が気になるところです。 社殿の背後にある盛り土が、土塁に見えなくもないところです。 さらに先の斜面にはこれが建っていました。 これまでにも曲輪跡に送電用の鉄塔が建っているのは見たことがあります。 ここが曲輪跡かどうかは別にして、史跡の有効利用といったところでしょうか。 三内神社本社のあるピークには天竺山の名称があり、標高300mのピークからは東側(都心方面)の眺望が開けていました。 東京サマーランドらしき観覧車が見えており、さらにその背後に続く山稜は八王子城へと続いています。 武田信玄の甲州へ続く秋川流域にあって、八王子城からの支城を築くならば、ここは絶好のロケーションだと思われます。 しかしながらここに城郭はあったとしても、戦国時代の山城ではなかったようにも思います。 (狼煙台くらいはあったかも知れませんが) 縄張りなどを見る限り、戦国時代より前の鎌倉時代、武州南一揆の武士団城跡かも知れません。 武州南一揆が上杉禅秀の乱(1416年)の時から活躍していたことを考えると、地の利のあるこの場所に城郭があったとしても不思議ではないと思います。 (実際に南側の山麓、秋川流域には「舘谷」の地名があり、有力武士の拠点があったことがうかがえます) 五日市郷土館に展示されている、足利持氏から武州南一揆への感状。 阿伎留城は武州南一揆の有力者である小宮氏の居館だとも言われていますが、三内村の三内氏の築城だとも言われています。 三内氏は現在もここにお住いのようで、三内神社の社務所の傍らにその顕彰碑が建っていました。 個人的にはここに城郭があったとは思うのですが、シンプルな縄張りからすると鎌倉時代、三内氏による築城だと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014/12/12 07:54:24 PM
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