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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(東京編)
「第○次 ○○合戦」みたいに、何度かの合戦が同じ場所で起こることがありました。
思い浮かぶ例としては、武田信玄VS上杉謙信の川中島や、北条氏綱・氏康VS房総連合軍(足利義明・里見義弘)の国府台などですが、いずれも同じ相手で同じ時代に起こったことです。 時代も違えば相手も違い、なおかつ時代の流れを変えるような、そんな戦いの舞台になってきたのが、東京都府中市の分倍河原でしょうか。 まずは「太平記」の時代、分倍河原と言えばやはりこの人です。 分倍河原駅前の新田義貞像 名将・愚将の評価はともかく、やはり武将には騎馬像が似合うものだと、この新田義貞像を見てつくづく思いました。 (騎馬像と言えば、当ブログのプロフィール画像も同じ太平記の時代、楠木正成の騎馬像です) 分倍河原の駅からは「分梅」の地名があり、住宅地の中を通る普通の道がかつての鎌倉往還、「鎌倉街道」です。 すべての道は鎌倉に通ず。 その鎌倉街道を南下すると、親水公園のような遊歩道に行き当たりました。 ここがかつての多摩川の河原、分倍河原です。 (現在の多摩川の流域は、ここから1kmほど南にあります) 分倍河原古戦場碑 新田義貞が鎌倉幕府の倒幕軍を率い、鎌倉に攻め込んだいきさつは下記の通り 6日で鎌倉を陥落させたようになっていますが、実は鎌倉に近づくにつれ、幕府軍の防戦によって苦戦を強いられています。(化粧坂や稲村ヶ崎など) それでも、鎌倉幕府の倒幕で言えば、実力行使では新田義貞が立役者でしょうか。 1333年の鎌倉幕府倒幕の舞台の1つとなったのが分倍河原でしたが、鎌倉幕府倒幕から建武の親政を経て、ずっと後の足利将軍の室町時代に起こったのも分倍河原の戦いでした。 同じ足利氏ながら京都の室町幕府と対立する鎌倉府の足利氏、その鎌倉府と対立する関東管領上杉氏。 応仁の乱に先立つ1455年、その鎌倉公方と関東管領の戦いの場となったのも、やはり分倍河原です。 2つの戦いから、分倍河原(多摩川)は鎌倉の生命線だったことがうかがえます。 私本太平記(五)-【電子書籍】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014/12/17 09:19:34 PM
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