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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(東京編)
記事の日付は昨年になっていますが、2014年最後の城めぐりは深大寺城です。
深大寺の境内を散策し、深大寺そばで一杯やった後は、いよいよ都立神代植物公園の水生植物園のエリアへと足を向けて行きました。 冬の植物公園はなんとも殺風景ですが、水生植物園の南側(右側)の台地上に深大寺城の城跡があります。 現地の城跡図を見る限りでは、南側を大手として、本丸から三の丸までを備える縄張りだったようです。 現在の三の丸はテニススクールの敷地となっており、フェンス越しに眺めてみると、遺構らしきものが残っていました。 テニススクールに続く車道ですが、枡形虎口にしか見えません。 テニススクールの道を横に見ながら、深大寺城跡に続く道を上がると、二の丸の曲輪が広がっていました。 深大寺城の二の丸は、戦国城郭としては意外と広く、家族連れがビニールシートを広げて楽しんでいました。 建物の掘立跡 突然現れた怪しい城跡ハンターは、二の丸の曲輪そのものには目もくれず、二の丸の周囲から探索を始めました。 二の丸南側の土塁 土塁の向こうに見える住宅地には、腰曲輪が配されていたと思われます。 二の丸から見た三の丸方向 フェンス越しに見ると、竪堀のような跡も見られます。 三の丸のある西側は特に堅固な縄張りとなっており、二重土塁と空堀の跡が残っていました。 いまなお自然が残る深大寺界隈とは言え、都心に近い城跡でここまで遺構が残っているのは驚きです。 深大寺城の遺構がここまで残っているのには、皮肉で悲しい理由もあるのですが。 二の丸の周囲を巡った跡、本丸方向に来てみると、ここにも土塁と空堀の跡が残っていました。 左が本丸で、右が二の丸です。 本丸虎口 二の丸とは土橋でつながっていたようです。 本丸の周囲にも土塁が残っており、片隅には城跡碑がひっそりと建っていました。 実は7年ほど前にも深大寺城を訪れたことがあるのですが、その時は夏場だったため木々が生い茂り、縄張りの様子もよくわかりませんでした。 本丸 前回はやたらとカラスが多く、木や草に覆われていたので、城跡めぐりどころではありませんでした。 やはり冬場は戦国城郭の最適期で、カラスもいなければ天敵の爬虫類もいません。 本丸土塁 なによりも落葉で縄張りがわかりやすくなるのが一番です。 深大寺城の築城時期や築城主については不明ですが、戦国時代には河越城(川越城)を本拠地とする扇谷上杉家の拠点でした。 あの河越夜戦よりもずっと前の話で、扇谷上杉氏の支城だとすると、太田道灌が築城した可能性もあります。 扇谷・山内の両上杉氏と対立し、関東平定を狙う小田原北条氏に備えるため、その拠点として深大寺城が整備されたと言われています。 その北条氏綱が河越城を攻略するにあたり、この深大寺城を攻めることなく素通りしてしまったため、深大寺城はその防衛拠点としての力を発揮することができませんでした。 これだけ堅固な深大寺城ですが、攻撃を受けなかったために、かえって遺構が残っているのは、なんとも皮肉な結果です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/01/19 10:14:15 PM
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