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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(埼玉編)
鐘撞堂山を後にして、円良田湖の湖畔を巡りながら少林寺へとやって来ました。
(鐘撞堂山から少林寺までは最短ルートもあったのですが、混雑を避けて大回りした経緯があります) 少林寺のある羅漢山のピーク一帯には、戦国時代の花園御岳城が築かれていたようです。 少林寺本堂裏手の羅漢山のピークには大きな広場があったのですが、実はこれが曲輪の跡だったとは思ってもいませんでした。 さらに城郭の中心部もこの上の方にあったようなのですが、てっきり中心部が本堂の辺りかと思っていて、そのまま本堂の方へと降りてしまいました。 頂上部の曲輪跡の端にある釈尊と菩薩像 本堂に至るまでの斜面では、道の両側にも五百羅漢と千体荒神がずらりと並んでいて、圧巻の光景でした。 それでも城郭の遺構ばかりに目が向いていて、あまり五百羅漢を意識することはありませんでした。 背後にあるのは土塁のようにも見えますが、羅漢像越しに見ると不気味な感じです。 こちらも背後に堀切のような跡がありますが、何とも奇特な光景です。 五百羅漢と千体荒神の像は、江戸時代の1832年に安置されたそうです。 戦国時代の城郭にこれらの像が並んでいたら、最大の防御になったでしょうか。 五百羅漢の並ぶ道を降りた先には、少林寺の本堂が見えてきました。 少林寺本堂 (もちろん三十六房まではありません) それにしても古刹の山寺には、場所や季節を問わず、厳かないい雰囲気があります。 少林寺の開山は1511年のことで、こちらは関東の戦国期の真っ最中ということになります。 開基は北条氏第3代北条氏康の家臣藤田国村とも藤田康邦とも言われています。 いずれにしても小田原北条氏とのつながりが深かったと思われますが、藤田康邦の婿養子となったのが、北条氏康の4男で名君として名高い北条(藤田)氏邦です。 鉢形城の攻防戦もそうですが、もしも北条氏邦が氏康の長男だったら、関東の戦国史は違うものになったかも知れません。 ところで花園御岳城の方ですが、その鉢形城の支城である花園城の、さらに支城だったと思われます。 少林寺の駐車場の片隅、この方形の縄張りと土塁の傾斜を北条流の築城術を見るのは、ちょっと無理があるでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015/05/07 09:03:14 PM
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