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テーマ:城跡めぐり(1254)
山形駅の南側に山形城跡があり、現在は二の丸部分が「霞城公園」となっています。
二の丸南側に公園の入り口があり、外堀と枡形虎口の跡が残っていました。 二の丸南門跡 実は南側が大手ではなく、大手門は東側にあったようです。 二の丸の外堀 途中で石垣から土塁に変わっています。 二の丸南門 櫓門が建っていたと思われます。 山形城の縄張りは駿府城のような輪郭式になっており、本丸の周囲を二の丸が取り囲むような形になっています。 画像の左側が南で、右側が北になります。 それにしても二の丸の敷地が広大で、本丸南側の曲輪跡には山形県立体育館や武道館が建ち、本丸北側の曲輪跡には野球場ができてしまうほどです。 二の丸南門から二の丸に入ると、とりあえず南→西→北→東の順に時計回りに回ってみることにしました。 二の丸南側の一部 あまりに遠いのと暑いので、さすがに探索する気にはなりませんでしたが、二の丸の周囲には土塁が見えています。 二の丸の西側は整備されておらず、森林の中で発掘調査が行われているようでした。 さらに二の丸の北側に回ってみると、虎口跡が霞城公園の出入口になっています。 二の丸北不明門跡(外側から見たところ) 櫓門が建っていたと思われますが、2車線の車道が通るほどの幅があります。 北不明門の櫓台(内側) 山形市営野球場の脇を通って二の丸の東側に回ってみると、遠目にも目立つ櫓門がありました。 二の丸東大手門(復元) 東西南北の二の丸虎口のうち、大手口は東側にあったようです。 渡櫓 江戸城の桜田門を彷彿とさせる大きさがありました。 その渡櫓を通って外側に出ると、土塀と枡形も復元されていました。 枡形の外側には、高麗門形式の表門も復元されています。 表門(外側からみたところ) 二の丸東側の外堀跡 外堀に並行して、奥羽本線(山形新幹線)が通っています。 再び城内に戻ると、今度は本丸を目指して歩いて行きました。 本丸の大手口は南東の隅にあり、大手門が復元されています。 本丸南側の内堀 本丸大手一文字門(復元) 一文字門の虎口付近は石垣で囲まれており、積み方は打込み接ぎになっていました。 石垣石には矢穴も見られることから、現存石垣だと思われます。 二の丸の外堀もそうでしたが、山形城では虎口の付近だけ石垣が積まれ、後は掻き上げの土塁になっています。 これだけの規模の城郭を総石垣造りにすると、城が完成した途端に破綻してしまうことでしょう。 表門の先には枡形も復元され、土塀には狭間が切られ、雁木も復元されていました。 当時は櫓門も建っていたと思われますが、現在は櫓台だけが残っていました。 本丸内部に入ってみると、曲輪の東側には土塁が復元されています。 しかしながら整然としていたのはここまでで、後は普通の建設現場といった様相でした。 本丸を含めて、復元に向けた発掘調査中のようで、2033年までには調査と復元が完了するそうです。 発掘された本丸井戸 本丸御殿のあった辺り それにして日本100名城の中で、本丸に建設機械が置いてあるのは、山形城くらいでしょうか。 日本100名城の選定にあたっては、1つの都道府県で最低1城のしばりがありました。 山形県から1城選ぶとしたら、個人的には米沢城だと思うのですが、さすがに築城主が黙っていないかも知れません。 近世城郭の特徴が残る山形城ですが、築城年代は古く室町時代初期に遡ります。 しかもこの時代の築城には珍しく、築城年まで特定されていて、1356年に出羽国探題であった斯波兼頼(最上氏の初代)とされています。 現在の城郭の原型は、最上氏第11代の最上義光による縄張りとされています。 二の丸にある最上義光像 関ヶ原合戦時の伊達政宗・最上義光連合VS上杉景勝の「長谷堂合戦」では、山形城が霞に隠れたことから「霞城」と呼ばれるようになりました。 最上氏が改易となった後、鳥居忠政が城主となって城郭を整備し、現存する二の丸の水堀や石垣、土塁などは鳥居氏の時代に築かれたものです。 (財)日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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