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テーマ:城跡めぐり(1258)
白旗が峰の山頂部分にある本丸では、発掘調査に基づいて石垣が復元されています。
手前側の石積みは斜面の保護のために後世になって積まれたものですが、向こう側は当時の石垣です。 発掘調査の結果、「穴太積み」の技法が使われていたことから、蒲生氏郷の時代だと思われます。 現地にある案内図を見ると、本丸は総石垣造りで、隅櫓や天守も建っていたようです。 本丸平面図 本丸東櫓台跡の石垣 隅石もしっかりと積まれています。 本丸南側の石垣 石積みは切込み接ぎに近く、蒲生氏郷の後の時代かと思います。 本丸虎口 東櫓台(内側から見たところ) 天守台 本丸に立って周囲を眺めてみると、「智恵子抄」の安達太良山は雲に隠れて、わずかに山容が望める感じでした。 安達太良山の方向 本丸を降りて西側に回ると、搦手門の石垣が残っていました。 この石垣も近世城郭として築城された時のものとされ、こちらも蒲生氏郷の時代のものかと思います。 石積みとしては後世の積み方なので、江戸時代に改修されたのかも知れません。 二本松城は白旗ヶ峰の地形を活かして、山全体を城郭化したような印象がありました。 そんな二本松城でしたが、戊辰戦争の時には1日で落城させてしまい、建造物も焼失させてしまったのは残念です。 室町時代の嘉吉年間(1441年頃)に奥州探題に命じられた畠山満泰(二本松満泰)がこの地に築城し、以後1586年まで約140年の間、畠山氏(二本松氏)の居城となっていました。 1585年と1586年の2度に渡って伊達政宗が二本松城を攻撃し、2度目の攻城戦で二本松は落城して、二本松氏は滅亡しています。 伊達政宗の支配下になると、片倉景綱や伊達成実を城代としましたが、伊達氏の支配は1590年までの4年間でした。 豊臣秀吉の奥州仕置によって蒲生氏郷が会津若松に入城すると、二本松城は会津若松城の重要な拠点となり、現在に残る近世城郭に改修されています。 蒲生氏郷の後は上杉景勝の支配下となり、その後は再び蒲生氏の支配下となったりと、二本松の領主は目まぐるしく変遷していきました。 江戸時代になると「賤ケ岳七本槍」の加藤喜明の支配となり、1643年からは丹羽長秀の嫡流である丹羽光重が白河小峰城より入城し、以後幕末に至るまで丹羽氏が二本松藩主を務めていました。 そして、1868年の戊辰戦争で丹羽氏と二本松藩は奥羽越列藩同盟に加わったため、二本松城も政府軍の攻撃を受けることとなり、二本松城は落城し藩主は逃亡、城代の丹羽和左衛門は二本松城で切腹して果てました。 天守台脇にある丹羽和左衛門自尽の碑 戊辰戦争の二本松の戦いで、二本松藩は337名以上の戦死者を出しました。 三の丸にある「二本松藩士自尽の碑」 政府軍の近代式軍隊の前に、封建的な白兵軍隊が敗北する時代の転換点でしょうか。 兵力が不足していた二本松城では、老人や少年も最前線で守備にあたっていました。 二本松少年隊像 戊辰戦争での若き戦死者として、会津の白虎隊の名前が挙がってきますが、二本松でも13歳から17歳の少年兵たちが動員されていました。 政府軍に対する抗戦を主張する城代や家老たちが切腹して果てる中、命令系統を失って情報不足に陥った少年兵たち、最期は二本松城防衛の最前線に取り残されて命を落としています。 本丸直下「少年隊の丘」にある顕彰碑 戊辰戦争という全く大義のない戦いにおいて、少年兵たちを犠牲に追い込んだ責任は、もちろん二本松藩にあると思っています。 ちなみに二本松藩主の丹羽長国は米沢城に逃れ、その後の明治時代を暮らしていました。 丹羽氏と言えば、豊臣秀吉が「羽柴秀吉」を名乗った頃、「羽柴」は丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」からもらった名字です。 丹羽長秀公がこの歴史の体たらくを見たら、何と思ったでしょうか。 さらに言うならば、自分が築いた二本松城をたった1日で落城させてしまったことに、蒲生氏郷公は何と思うでしょうか。 日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/05 11:53:39 AM
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