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テーマ:城跡めぐり(1258)
GWに訪れた松阪城で蒲生氏郷の優雅な築城センスに触れた時、再び会津若松城を訪れたいと思っていました。
前回会津若松城を訪れたのは10年前のことで、大河ドラマ「八重の桜」の放映よりずっと前の話です。 まずはその蒲生氏郷が整備した会津城下を散策するべく、外郭の甲賀口まで行ってみました。 甲賀口門 若松城大手口から北へ約2kmほど行った場所にあり、ここから内側に侍屋敷が並んでいました。 「追手町」の地名が残る大手口のすぐ近くには、会津藩の家老であった西郷頼母の屋敷跡があります。 西郷頼母は松平容保の京都守護職就任を辞退するよう進言し、家老職を解任されています。 戊辰戦争の会津戦争では復職を許されたものの、政府軍への徹底抗戦を主張する会津藩の中にあって、政府軍への恭順を主張しながらも、政府軍と戦っていました。 さらに会津戦争では、籠城戦の足手まといになるとの理由から、妻子など一族21名が自ら命を絶っています。 西郷頼母邸とは甲賀口通りを挟んだ反対側にあったのが、同じく会津藩家老であった内藤介右衛門の屋敷で、その屋敷跡は「会津戊辰戦争終結の地」となっています。 会津藩の降伏式はこの甲賀通りで行われ、内藤介右衛門の屋敷にあった毛氈が敷かれました。 その赤い毛氈の上に立っていたのが、会津藩主松平容保と政府軍(旧薩摩藩士)の中村半次郎(のちの桐野利秋)です。 会津戦争では旧長州藩士の名前が出てこないのに、なぜ長州ばかりが仇敵になるのでしょうか。 甲賀口の大手門跡 明治維新にあたって、すでに西国雄藩は「国家」という概念を持っていたのに、いまだ「藩」単位の概念しか持ち得なかったことは、悲劇というより他はありません。 この戊辰戦争が長引けば、中立を保っていた欧米列強が動き出し、果ては日本の分割統治となって、国家としての独立を失う可能性があったと思っています。 いずれにしても1868年9月22日午前10時、会津藩は大手口にある北出丸に「降参」と書いた白旗を掲げ、ここに戊辰戦争は終結しました。 北出丸大手門 会津若松城と言うと、どうしても戊辰戦争のイメージになってしまうのですが、この近世城郭を築いたのは蒲生氏郷です。 北出丸に入ると、一旦は戊辰戦争の事は置いといて、城郭としての会津若松城を見て回ることにしました、 会津若松城は「鶴ヶ城」と呼ばれていますが、この地を「若松」と命名したのは、蒲生氏郷です、 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/01 10:28:41 PM
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