|
テーマ:城跡めぐり(1258)
会津は交通の要衝にある重要拠点でもあったため、歴代城主の顔ぶれも錚々たる面々が並んでいます。
現地にある案内板 会津若松城は元々黒川城と呼ばれ、室町時代初期から約200年の間、葦名氏が本拠地としていました。 葦名氏の本拠地があった小田山城 (本丸天守より見たところ、手前の丘陵部です) 1589年に伊達政宗が摺上原の戦いで葦名氏を滅ぼすと、会津と黒川城は伊達氏の支配下となっています。 しかしながらこれが豊臣秀吉の惣無事令に反するとして、奥州仕置によって伊達政宗は2年間で会津を失いました。 伊達政宗に代わって黒川城に入城したのが蒲生氏郷です。 蒲生氏郷は地名を黒川から若松に改名して城下町を整備すると共に、若松城を近世の城郭へと改修しました。 本丸に天守が建てられたのも、蒲生氏郷の時代です。 茶道に造詣の深かった蒲生氏郷は千利休の弟子「利久七哲」の一人で、千利休が切腹を命じられた後は、利久の子である千少庵を若松に匿っていました。 この時建てた茶室「麟閣」が本丸の当時の場所に復元されています。 麟閣 1598年に蒲生氏郷の子である蒲生秀行が宇都宮に移封になると、代わりに越後春日山城から会津若松城に入ってきたのが、上杉景勝です。 春日山城から会津若松には上杉謙信の墓所も移され、会津若松城の本丸にはその推定地がありました。 上杉景勝が支配する会津では、実に120万石の石高がありました。 関ヶ原の戦いの発端ともなった徳川家康の「会津征伐」の後、徳川家康によって上杉景勝は大幅に減封され、会津若松120万石から米沢30万石に転封となっています。 上杉景勝の後の1601年に再び蒲生秀行が入城して蒲生氏が城主となりますが、伊予松山に移封となり、入れ代わりに伊予松山からは加藤嘉明が入ってきました。 加藤嘉明の時代に城郭が拡張され、天守も再建されています。 加藤氏の後は出羽山形より徳川家光の弟である保科正之が入り、以後は最後の藩主松平容保に至るまで松平氏が藩主となっています。 関連の記事 会津若松城(鶴ヶ城)~その1→こちら 会津若松城(鶴ヶ城)~その2→こちら 日本城郭協会「日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/03 03:53:26 PM
コメント(0) | コメントを書く
[城跡と史跡(青森・秋田・山形・宮城・福島編)] カテゴリの最新記事
|