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テーマ:史跡めぐり(508)
会津磐梯山の山麓、猪苗代湖を望む湖畔には、会津藩の初代藩主保科正之を祀る土津(はにつ)神社があります。
土津神社は1675年に創建され、創建当初の社殿は日光東照宮とも並び賞されるほどだったそうです。 拝殿 戊辰戦争の戦火で社殿は焼失し、現在の社殿は地元の人たちによって再建されたものです。 保科正之は江戸で亡くなったのですが、自らの埋葬地を猪苗代湖が一望できる、この会津磐梯山麓に決めていました。 拝殿の後ろ側には、墓所へと続く長い参道があります。 墓所 墓所内はもちろん立ち入り禁止ですが、間から中を垣間見ると、墳墓のようになっていました。 保科正之は徳川第2代将軍秀忠の子として生まれましたが、実は側室の子であったため、恐妻家であった徳川秀忠は、このことを内緒にしていました。 そのために高遠城主であった保科正光の子として育てられ、その保科氏への恩義から松平を名乗らずに、生涯保科姓を名乗ったそうです。 保科正之は真面目で有能なため、兄に当たる第3代将軍徳川家光は、特に保科正之を可愛がったと言います。 初代会津藩主になると、「会津家訓十五箇条」を残し、その第一条は以下のように書かれています。 「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず 若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず」 すなわち将軍家に対して忠誠を尽くし、もしも将軍家に背いたならば、もはや子孫ではなく、家臣も従ってはならない、という意味です。 皮肉にもこれを忠実に守ったのが、会津藩9代で最後の藩主となった松平容保でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/05 11:14:01 PM
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