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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(大分編)
阿蘇くまもと空港から向かった先は、阿蘇山カルデラのさらにその先、熊本県との県境にある大分県竹田市です。(大分県ながらアクセスは熊本空港の方が便利です)
瀧廉太郎が「荒城の月」を作曲するにあたり、イメージしたのがこの岡城でした。 (作詞の土井晩翠が構想したのは、仙台城と会津若松城だとされています) 岡城址碑と登城口 スピーカーから「荒城の月」の男性独唱が延々と流れる異様な雰囲気の中、登城道を登っていくと、目の前の斜面に大手門の高石垣が現れました。 大手門櫓台跡 大手門を注意深く見てみると、桝形や門の礎石だけでなく車敷まで残っていました。 礎石跡 車敷跡(現存する遺構だと思います) 桝形跡 この大手門は、1612年に築城の名手として知られる藤堂高虎が岡城に立ち寄った時のアドバイスにより、向きを変えて建て替えられたものだそうです。 (ということは、藤堂高虎は伊勢国津からはるばる豊後国竹田までやって来たのでしょうか) 以前の大手門跡も「古大手門」として残っていました。 岡城は標高350mの天神山の山頂に本丸を配し、城郭の広さは約100万平米と、東京ドーム22個分の広さがあります。 復元鳥瞰図を見ると、まるで山上の要塞都市のような感じです。 現地にある復元鳥瞰図 大手口からは西の丸の方に行ってみました。 西の丸東門跡 (碑には「近戸門跡」とありますが、地図で見ると「東門」となっていました) 西の丸南側石垣 西の丸の虎口は二段になっており、筋違いで上段にもう一つ虎口があります。 西の丸には1664年に第三代藩主中川久清によって御殿が建てられ、中川久清の隠居用に使われていました。 その後は西の丸御殿で元日の行事が行われた記録があることや、法事や慶事などが行われていることから、儀礼的な役割があったようです。 西の丸の曲輪跡 岡城に限らず、西の丸にはご隠居が住むケースがよくあります。 西の丸の北側には火除けの神様である秋葉神社が祀られていたようで、その跡の碑が建っていました。 秋葉社跡 西の丸の周囲には、家老や城代の屋敷が並んでいたようで、石垣や曲輪の跡が残っていました。 西の丸北側の中川民部(家老)屋敷跡 西の丸から中川民部屋敷に至る虎口跡 西の丸石垣(家老屋敷側から見たところ) 中川但見(家老)屋敷入口跡 中川但見は中川氏の太祖中川清秀に仕えた老職で、第二代で戸伏氏から中川姓を名乗り、代々老職に就いています。 中川但見屋敷石垣 中川但馬屋敷跡 中川秀成が築城に着手した時、本丸完成までの間はここを仮屋敷としていたそうです。 中川但見屋敷の隣には、通路を挟んで城代の屋敷があったようで、石垣の跡が残っていました。 城代屋敷跡石垣(右側) 城代屋敷跡 岡城では建物こそ残っていませんが、石垣がよく残っているため、当時の城郭の姿も全く想像に難くありません。 (大げさかもしれませんが、イタリアのポンペイ遺跡を訪れた時と同じ印象です) この後はいよいよ丸の内、三の丸から本丸を目指して行きました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/07 09:50:22 PM
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