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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(熊本編)
来年の大河ドラマを先取りしてみました。
向かった先は西南戦争最大の激戦地である田原坂です。 田原坂一の坂 田原坂は熊本城から北へ約15kmのところにあり、比高80mのピークに至るまでに、曲がりくねった道が約1.5kmも続いています。 現在の一の坂 大砲の通れる道路幅3~4mのこの道だけが、官軍が熊本へ進軍できる唯一の道でした。 1877年(明治10年)2月、西郷隆盛率いる薩摩軍1万3千は鹿児島を発ち、熊本鎮台府のある熊本城を目指して進軍して行きました。 熊本城総攻撃にあたっては、「この『いらさぼう(=竹棒)』で一撃でごわす」と、薩摩軍は簡単に熊本城を落とせると思っていたようです。 薩摩軍1万3千に対し、一方の熊本鎮台の守備軍は谷干城や児玉源太郎以下3千5百ほどですが、築城の名手加藤清正の熊本城がそう簡単に落ちるはずがありません。 (元々加藤清正が薩摩の抑えとして、籠城戦を想定して築いた熊本城です) 谷干城像(2009年3月熊本城にて) 児玉源太郎像(2010年11月国立台湾博物館にて) 皮肉なことに築城から250年経った後でも薩摩軍は熊本城に侵入することすらできず、西郷隆盛は「清正公と戦しよるごたる」とつぶやいたそうです。 薩摩軍は熊本城総攻撃を中止して、官軍の進軍に備えるため、田原坂へと兵力を向けました。 田原坂二の坂の旧道付近 現在の田原坂二の坂 田原坂も加藤清正が北の備えに築いた要衝ながら、官軍が大砲を運びながら熊本へ通じる道はここしかなく、今度は官軍が加藤清正に悩まされる結果となりました。 「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂 右に血刀 左に手綱 馬上ゆたかな美少年」 田原坂公園にある美少年像 狭い田原坂を挟んで官軍と薩摩軍が銃撃戦となり、この時に官軍が使用した銃弾32万発は、後の日露戦争旅順の戦いで陸軍が使用した30万発を上回る数です。 田原坂頂上の田原坂公園には、銃弾を受けた土蔵が復元されていました。 至近距離での銃撃戦では、銃弾同士がぶつかる「かちあい弾」も数多くあったそうです。 田原坂三の坂 豊後竹田の岡城から急ぎ田原坂に着いた時、資料館はすでに閉館していました。 そこで屋外の案内板を参考にしていたのですが、見る限りでは「抜刀隊」については一言も触れられていませんでした。 薩摩軍は士族中心のサムライ軍団で、一方の官軍は徴兵制度で集められた武士以外の軍隊です。 この狭い田原坂の地の利を活かし、薩摩軍は日本刀を使った白兵戦を仕掛けてきました。 1対1の戦いに不慣れな官軍は、薩摩軍の斬り込み攻撃の前に多数の犠牲を出して、劣勢となりました。 そこで陸軍の後方支援を担当していた警視隊(のちの警視庁)より、剣術に強い選抜隊を組織することが提案されました。 徴兵制度の生みの親である山縣有朋は難色を示しましたが、最後は山縣有朋が自ら命名して、ここに士族中心の「抜刀隊」が結成されています。 百名あまりの抜刀隊の中には、戊辰戦争で賊軍として敗北した旧会津藩士たちもいたと言います。 田原坂公園にある絵図 左側にかかしのように描かれているのが薩摩軍だと思います。 その右側に陸軍の軍服と違った制服を着て、日本刀を抜いた人たちがいるのですが、これが警視隊の「抜刀隊」でしょうか。 ♪われは官軍 わが敵は天地容れざる朝敵ぞ 敵の大将たるものは 古今無双の英雄で…♪ フランスのルルーによって作曲され、「陸軍分列行進曲」として、後の太平洋戦争の学徒出陣の映像でも流れる曲です。 現在は陸上自衛隊の行進曲でも使われますが、元々の発祥は警視庁であり、警視庁の行進でも使われています。 田原坂公園には、官軍の立場から田原坂の戦いを振り返った「崇烈碑」が建っています。 田原坂公園の崇烈碑 西郷隆盛を評価しつつ、この田原坂の勝利がなければ、政府の不満分子が全国に広がっていたと書かれています。 西南戦争の総督である有栖川宮熾仁親王や陸軍中将山縣有朋、海軍中将川村純義の名前はありますが、同じ官軍なのに抜刀隊については触れられていませんでした。 ただ、明治10年に建立された碑の最後には、この田原坂の記録を留めておきたい旨のことが書かれています。 田原坂に限らず、西南戦争の戦死者は薩摩軍7186名、官軍6923名でした。 田原坂公園には、その慰霊碑が建てられています。 日本国内で最大にして最後の内戦である西南戦争の、その最大の激戦地が田原坂でした。 戊辰戦争・西南戦争という犠牲を払いながら、その後の日本は統一の独立国家として、各国から認められるようになりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/17 07:03:31 AM
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