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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(熊本編)
近世の日本城郭でありながらも、西洋式の築城技術が見られるのが人吉城でした。
明治に入った後、その人吉城が実戦の舞台になるとは、なんとも皮肉な結果です。 1877年の西南戦争、田原坂で敗退した薩摩軍が拠点としたのが人吉盆地です。 薩摩軍が本営を置いた永国寺 人吉城の大手門からは500mほどの距離にあります。 永国寺にある「西郷隆盛本営跡」碑 西郷隆盛は約1ヶ月の間人吉に滞在し、ここを本拠地にしていよいよ官軍との決戦に備えていました。 人吉藩主の相良氏が御仮屋としていた屋敷が、西郷隆盛の宿舎だったそうです。 正門は人吉城の堀合門を移築したもので、人吉城では唯一現存する建造物です。 人吉での西郷隆盛は、作戦を桐野利秋や村田新八に任せ、自らはこの辺りを散策してウサギを狩ったり、球磨川の魚を獲ったりしていたそうです。 部下たちが奮戦している中、普通に考えるとなんとも呑気なふるまいです。 それでも話が西郷隆盛ほどの人物となると、その真意は私ごときにはわかりません。 薩摩軍は本営地と同じ球磨川の南側にある人吉城三の丸に砲台を置き、対岸の球磨川北側の村山に着陣した官軍を砲撃していました。 人吉城三の丸から見た官軍の村山陣地の方向 しかしながら薩摩軍の砲撃は官軍陣地まで届かず、人吉の城下町を焼失する結果となっています。 逆に官軍の砲撃は球磨川の対岸まで正確に届き、人吉城や永国寺も焼失してしまいました。 この人吉の攻防戦は田原坂に次ぐほどの激戦でしたが、来年の大河ドラマでは放映されるのでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/17 10:53:46 AM
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