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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(熊本編)
日本三大急流の一つに数えられる球磨川も緩やかとなり、天草を望む八代海に注ぐ河口付近に八代城があります。
1615年に「一国一城令」が制定された後、熊本藩では熊本城に次ぐ二番目の城として、例外的に築城が認められたのが八代城でした。 総石垣造りの近世城郭で、現在は本丸と北の丸の一部が残っています。 本丸東口の高麗門跡 高麗門の虎口(城内櫓台から見たところ) 高麗門の桝形 高麗門の櫓台 現在の城跡に建造物の遺構は残っていませんが、八代市内の本成寺には高麗門が移築されています。 一旦本丸を出て、内堀沿いに本丸の周囲を巡ってみました。 南東の隅石 現在本丸は八代宮の境内となっており、本丸の南側に参道がついています。 当時は南側に虎口はなく、橋も架けられていませんでした。 本丸南西側 本丸の北西隅には天守台があったようで、石垣も高く積まれていました。 北西の隅石 こうやって本丸の周りを巡ってみると、いかにも天下泰平の時代に築かれた城郭らしい気がします。 戦国の時代の防御一辺倒とは違って、吉方や凶方を意識した縄張のように思いました。 昔は方角を十二支で表しましたが、辰巳(巽=南東)とその対角線上にある戌亥(乾=北西)が吉方とされ、丑寅(艮=北東)は「鬼門」、未申(坤=南西)は「裏鬼門」として忌み嫌われていました。 江戸城などのように、南東の辰巳の方角に大手門があり、北西の戌亥の方角に天守が築かれるケースがよく見られます。 八代城も同様で、表門は東側にあり、天守は北西の隅に築かれています。 本丸の北東側には、石垣が内に凹んだ形の「鬼門欠け」が見られました。 本丸北東側(城内から見たところ) 江戸城にも「鬼門欠け」があり、気象庁の前あたりは石垣が内側に欠けたような縄張になっています。 本丸の北側の虎口は「埋め門」となっており、名前からすると北側に搦手門があったようです。 埋め門跡 本丸の北側には、道路を挟んで北の丸の跡が残っていました。 北の丸跡 細川忠興の三男である細川忠利が熊本城に入った時、細川忠興自身は八代城に入り、北の丸で隠居していました。 北の丸の内堀跡? 細川忠興は「三斎」と号し、北の丸に数寄屋を建てるなど、庭園を整備しました。 細川三斎が自ら植えたとされる「臥龍梅」が今も残っています。 八代城の遺構では、この臥龍梅が最も貴重ではないでしょうか。 八代城と言えば、「とんち話」で知られる彦一が城下に暮らしていました。 実在なのかフィクションなのかはわかりませんが、河童釣りに出て来るお殿様とは細川三斎がモデルのような気がします。 実は「八代城」と呼ばれる城は3城あって、中世の古麓城、近世の麦島城、そして現在の松江城が「八代城」と呼ばれています。 1588年に小西行長が肥後に入部すると、中世の古麓城を廃城にして、新たに近世城郭の麦島城を築城しました。 関ヶ原の戦い後には加藤清正が肥後に入部し、1615年の一国一城令の後も熊本城と麦島城の2城の存続が認められていました。 1619年に麦島城が大地震によって崩壊すると、一国一城令の下でも新たに築城を認められたのが、現在の八代城(松江城)です。 加藤氏の後は細川氏の所領となり、細川忠興が八代城の北の丸で隠居していましたが、細川忠興が亡くなった後、細川氏の筆頭家老である松井氏が城代となり、代々松井氏が城主を務めています。 日本城郭協会「続日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/18 09:55:31 PM
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