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テーマ:城跡めぐり(1254)
男鹿半島の付け根あたり、日本海に面した山上に脇本城があります。
現地にある案内図を見ると、尾根伝いに登って行けば城跡があるようです。 後から気付いたのですが、この地図の方角はともかく、縮尺が変です。 地図にある菅原神社へは、割と早く着きました。 菅原神社 その名の通り祭神は菅原道真で、鎌倉時代の正応年間(1288年~1292年)の創建です。 菅原神社から脇本城の虎口までは、かつて「天下道」と呼ばれる登城道が付いていました。 現在は舗装の登城道が付いていますが、原生林が生い茂る中を通るため、一応クマ除けの鈴を鳴らしながら歩いていました。 (「羹に懲りて膾を吹く」とはこのことですが、会津若松の小田山でクマに遭遇したのは、この2週間前のことです) 樹林帯が切れて視界が開けた時、目の前には土塁と空堀の中世城郭の跡が広がっていました。 「内館」曲輪の土塁 内館の土塁と登城道である「天下道」 内館曲輪の空堀 内館の曲輪には、脇本城で最も高い「大土塁」がありました。 内館曲輪の「大土塁」 脇本城には井戸の跡がいくつか残っていて、その一つが内館の大土塁の脇にありました。 井戸跡 かつて脇本城が攻められた時、城主は貯えていた金銀財宝を家臣に持たせ、逃げるように指示しました。 しかしながら「金の茶釜」だけは持ち出さずに、井戸の底に埋めたとの伝説があって、その伝説を信じた人たちが、井戸を掘り続けたと言われています。 (現在では史跡を勝手に発掘することは法律で制限されています) 内館の最奥部から振り返ってみると、土塁や空堀の遺構がよく残っているため、縄張の様子がよくわかりました。 内館が本丸に相当すると思われます。 内館の最奥部から眺めると、男鹿半島東側にある城下町が見渡せました。 八郎潟も見ることができます。 内館のある尾根とは別に、南側の日本海側へ延びる尾根には、「生鼻崎(おいばなさき)」と呼ばれる曲輪群が配されていました。 内館から見た生鼻崎 ところで、ここまでクマやその他の動物に遭遇することはありませんでしたが、生鼻崎の向こう側から時折、「バーン、バーン」とトタン板をハンマーで叩くような音が聞こえてきました。 かなり危険な動物がいるとしか思えなかったのですが、現地の案内図を見てみると、近くにクレー射撃場があるようで、その発砲音のようです。 生鼻崎に近づくにつれ、今度はハチの羽音が気になってきて、先端部にはかなりのクマ蜂がホバリングしていました。 生鼻崎の先端部 1810年の地震により、この先の遺構は海中に沈んだそうです。 それでも生鼻崎からのパノラマは最高で、いつか別の季節にまた来たいと思う場所です。 生鼻崎からみた男鹿半島東側 男鹿半島西側 出羽北部に勢力を持つ安東氏は、檜山城を本拠地とする檜山安東氏と、湊城を本拠地とする湊安東氏に分かれていました。 1570年に安東愛季が両安東氏を統合すると、1577年に脇本城を大規模に改修して、以後は安東氏の本拠地となっています。 安東愛季は秋田氏を名乗りましたが、その後の相続争いが豊臣秀吉の惣無事令に反するとして、秋田氏は脇本城から湊城に移封となり、脇本城も廃城となりました。 その後の1602年に佐竹義宣が常陸水戸城から出羽湊城に入城するにあたり、入れ替わりに秋田氏も常陸宍戸に移封となっています。 日本城郭協会「続日本100名城」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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